試合前、サッカー日本代表チームのロッカールームに 「おい、お前らみんな、ケツついてないぞ」の声が響いた

98年のフランスW杯、秋田はDFとして全ての試合にフル出場、世界を相手に闘った/JMPA

 サッカー日本代表として、国を背負って闘うその重さは、やった者しか分からないものだと思います。

 Jリーグが華々しく開幕した一九九三年に鹿島アントラーズ入りした私は、九五年に初めてA代表に呼ばれて以降、W杯アジア予選を初突破した九七年の“ジョホールバル”の歓喜、九八年のフランスW杯出場、二〇〇二年の日韓W杯ベスト十六など、様々な経験をしてきました。

 しかし最初から代表の重さを知っていたわけではありません。徐々にというか、段々と感じていったのです。

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 鹿島のセンターバックを務め、九六年には初めてJリーグチャンピオンにもなりましたが、クラブと代表では反響の規模も違ってきます。高校や大学では選手の家族や学校にかかわる人々が応援してくれていたのが、Jリーグになると今度は何万人という地域のサポーターが後押ししてくれます。そしてこれが日本代表になると、何十万、いや何百万と、大きな広がりを見せることになります。日本代表でプレーするようになってからは、音信不通になっていた知人から突然連絡があったり、道を歩いているだけで人々の視線を感じたり、「代表って凄いんだな」って痛感させられることが多くありました。

 注目度が高くなるにつれて、代表の重さを感じていきました。そうなると当然、プレッシャーが、のし掛かってきます。Jリーガー一年目、約一万五千人収容のカシマスタジアムでプレーしていると「酸素が薄いな」と思っていました。二年目になってその感覚がなくなると「あっ、俺は緊張していたんだな」って後になってプレッシャーがあったことに気づいたものです。しかし代表になると国立競技場に集まる五万人のファン、サポーターに加えて、ゴールデンタイムのテレビ中継で凄い数のファンが見ていることになります。その巨大なプレッシャーを感じてしまえば、闘えなくなると思いました。

一回でも妥協すれば自信は失われてしまう

 プレッシャーに負けないよう、代表に入ってからは、今まで以上に練習して、自信を植え付けていくためのベースづくりに励みました。「きょうはちょっとぐらい手を抜いてもいいだろう」といった心の甘えには一切、耳を貸しませんでした。この一回を妥協してしまえば、大事な場面で自信を生み出せなくなるからです。

 試合前になると、不安と自信が交互に押し寄せてきます。「大勢のファンの前でミスをするんじゃないか」「バッシングを受けるんじゃないか」……こういった不安の後に「俺は妥協なくやってきた。絶対に成功する」という自信の声が届いてきます。練習を妥協なくやってきた自負があるので、ピッチに入るときは必ず自信が不安を凌駕します。これが私のメンタルコントロール法でした。プレッシャーをはねのけて日本の勝利に持っていくためには、まず己に打ち勝たなければなりませんでした。

 日本代表のなかで最も影響を受けたのが、“闘将”と呼ばれた柱谷哲二さんでした。九五年に代表入りを果たした当初、私は出場機会にあまり恵まれませんでした。しかし同じセンターバックの哲さんの背中から多くのことを学びました。

 今でも覚えているシーンがあります。代表チームの調子が良くないとき、当時の加茂周監督がミーティングの最後、キャプテンの哲さんに「何かあるか?」と聞くのです。そうしたら哲さんが、みんなを見渡して言うんです。「おい、お前らみんな、ケツついてないぞ」って。“ケツついてない”というのはスライディングタックルに行ってない、相手と激しくやり合えていないということです。この言葉を聞いて、全身に鳥肌が立ちました。国を背負って闘う意味を、哲さんは言葉や態度で教えてくれました。

 ヴェルディ川崎の黄金期を築いた哲さんはこんなことも言っていました。

「俺は自分のプレーがどうかなんてどうでもいい。要はヴェルディを勝たせられるかどうか、だ。俺がいくらいいプレーしようが、チームが勝てなかったら何の意味もない」

 私がこの言葉を聞いたのが二十五歳のとき。「まずは自分」という考え方を、ガラリと変えることになりました。

 鹿島でブラジル代表を背負ってきたジーコからも多くのことを得ました。ジーコは四十歳を超えていても、試合終了の笛が鳴るまで力いっぱいのプレーを続け、声を出し続けていました。勝利に対する執着心が凄まじく、ミーティングでは戦術的なことを指示した後に、顔から湯気が上がるぐらいまでチームメイトにハッパを掛けていました。ジーコさん、哲さんの教えが自分のなかでリンクして、チームを勝たせたい、リーダーになっていきたいと、己の目指すべき道がはっきりと見える思いがしていました。

 日本代表のレギュラーになって最も苦しかった時期が九七年のフランスW杯アジア最終予選です。

 アウェーのカザフスタン戦が一対一の引き分けに終わって加茂監督が更迭されたり、岡田武史監督になってからも国立のUAE戦では引き分けて罵声を浴びせられたり、試合後、選手バスに生卵をぶつけられたりもしました。

 でも、そういったこともバネにしようと思いました。予選突破をあきらめたことは一度もありませんでした。日本に起こっていることが、これから他の国に起こっても不思議ではないと考えていましたから。韓国にアウェーで勝って、続くホームのカザフスタン戦に五対一で勝利したとき、アジア第三代表決定戦(イラン戦)を前にして「俺たちはW杯に行ける」という確固たる自信が芽生えていました。

 ジョホールバルでは多くのサポーターが日本から応援に駆けつけてくれました。私はケガもあって決していいコンディションではなかった。でもイランのエース、アリ・ダエイを相手に、すべての力を出し切りました。同点に追いつかれようとも、絶対に勝てると信じていました。

 試合終了のホイッスルが鳴り、チーム、サポーターが一体となって喜べたあの瞬間を、忘れることができません。体はもうボロボロでしたが(笑)。苦しんで勝ち取った出場権だからこそ、その分、喜びも大きかった。プロセスは“ドーハの悲劇”から始まっていましたし、だからファン、サポーターも、あれほど熱狂してくれたのでしょう。

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