「有楽街始まって以来けた外れの奇観」
事件の概要は、「有楽街に閑人十万の怒涛」を見出しにした読売7面(社会面)の記事が詳しい。「11日の朝、丸の内日本劇場を十重二十重に取り巻くものものしい黒山の群衆が行人の目を驚かせた。早朝6時、既に300余の群衆が一列励行で劇場を一巻きしていた。8時には1000余名、9時半の開場には5000と増え、一列が三列となり、五列となって雪崩を打って入場口に殺到する。丸の内署から急行した50名の制服警官は120名の劇場従業員とともに躍起の整理に当たった」。しかし、群衆の勢いは止まらない。
「正午ごろ、同劇場3000名の定員のところを、やむなく3500名まですし詰めにした後、締め出しをくった10万(丸の内署推定)は寒風の中に立ちつくした」
午後1時、さらに警官100人が増派される。そして登場するのが金沢という丸の内署長。劇場2階のバルコニーから拡声器で「これ以上は入場できないのだから、諦めて帰ってもらいたい。建国祭のきょうをもっと有意義に過ごす方法を考えてはどうです」と諭した。それでも「約1万余の客は依然として隊列を解かず、午後3時ごろには延々数町に及ぶ長蛇の列となった」。
読売の記者はその後“本音”を漏らしている。「この日から同劇場の舞台で歌う一満映女優の人気が巻き起こした、異変というにはあまり大げさすぎるし、まさに有楽街始まって以来けた外れの奇観であった」。こちらも女優は誰だったか、書いていない。
雑踏に耐えかねた女や子どもが屋根の上へ
朝日も混乱の模様を記述している。
「何千という人が2つか3つの切符売り場に向かって先を競うのだから、雑踏は乱闘ともなり、眉間を割られた女の悲鳴、その血を見てなお押しまくる学生服。広場に置いてあった自動車数台は群衆の肩にもまれて左に揺れ右に動き、その屋根の上には雑踏に耐えかねた女や子どもがはい上がって来る始末だ」
「何という醜態、何という無分別。群衆の内訳はざっと男七分の女三分。男の半数は学生の服装であり、女は総じて二十歳前後」と書いた後、署長の別の言葉を記録している。
「諸君! いまやわが国は東亜新秩序の完成に向かって渾身の努力を続けているのであります。忠勇なる将兵は大陸の曠野に戦っているのであります。それを思えば、諸君、今日のこのありさまは……」。悲憤慷慨といった口調だろうか。
日中戦争は泥沼化して、日本軍は前年1940年5月から宜昌作戦を開始。中国国民党政府の首都重慶を爆撃し、9月には「援蒋ルート」(英米などから蒋介石国民党政府への支援物資輸送ルート)遮断などのため、北部仏印(フランス領インドシナ)=現在のベトナムの一部=に進駐していた。