この「日劇七回り半事件」については正確に記述した資料が見当たらない。実際に集まったのは何人で、けが人や逮捕者はなかったのかなども不明。
四方田犬彦「日本の女優」には「満員で入場できないと知った者たちは互いに乱闘を始め、暴徒と化して道路を占拠すると、隣の朝日新聞社の自動車を転倒させる羽目になった。丸の内署が出動し消防車が放水を行ったが、興奮した群衆はなかなか立ち去ろうとしなかった」と書いているが、出典の記載はない。放水はあったが威嚇だったという証言もある。「七回り半」という表現も当時の新聞には見えない。そもそも正確に数えた人間がいたのかどうか……。新聞か雑誌が適当に書いたのが、語呂がいいことから一人歩きしたのではないか。それにしても、なぜ異常ともいえる騒ぎにまでなったのか。
「私のショーは唯一ともいえる娯楽だったのだろう」
本人は「李香蘭 私の半生」で「他に楽しい娯楽もなかったので、人気が集中したのだろう」と簡単に記述。「『李香蘭』を生きて」ではこう分析している。
「戦時体制が強化され、娯楽はことごとく禁止されていた。そんな中で『日満親善』という大義名分の下に開かれた私のショーは唯一ともいえる娯楽だったのだろう。私の人気だけで集まったわけではない。時代への閉塞感がこの騒ぎを生んだのだと、いまは思う」
それだけだろうか。そもそも、その当時の日本人にとって李香蘭とはどんな存在だったのか。それを考えるには、やはり「大陸3部作」、中でも「空前のヒット作」となった「支那の夜」に戻る必要がある。
李香蘭をスターにした「支那の夜」のヒット
舞台は上海。両親を日本軍に殺されて孤児となり、抗日運動に関わっていた李香蘭演じる中国人女性が、長谷川一夫扮する日本人船員に“善導”され、やがて結婚するというメロドラマ。
「キネマ旬報増刊 日本映画作品全集」の清水晶「作品解説」は「抗日は“迷夢”とされ、長谷川と李香蘭は結ばれて、それがそのまま日華親善に通じるという、この種の路線の定石通りのものだが、大陸進出が日本人の大きな夢だった時代だけに、李香蘭が満映の営業政策による日本人・山口淑子の“変身”とはつゆ知らない当時の大衆は、彼女のエキゾチックな中国スタイルに時代のアイドルを見いだして爆発的な人気を呼んだ」と書いている。
これに対し、佐藤忠男「日本映画史4 国家に管理された映画」(「講座日本映画(4) 戦争と日本映画」所収)はこう厳しく指摘している。
「侵略戦争正当化の映画を非行少女善導映画に例えるのは悪い冗談のようだが、ストーリーの骨子はまさにそれであり、そこに、当時の日本人の対中国意識が典型的に表現されている。当時の日本人にとって、日本の指導の下でアジアを西洋の植民地から解放するという〈大東亜共栄圏〉の理想を理解しない中国人は、いわばアジアの非行少年とみなすべき存在であり、教師としての日本人は、時には殴ってこらしめ、従順になったら愛してやる相手と意識されていたのである」。こうした見方が戦後の大勢といっていい。