中国大陸への夢とあこがれが「李香蘭」を生んだ
しかし、公開当時この映画は全く別の意味で批判されていた。
「大陸映画ははたしてこれでよいのか。昨年は長谷川一夫と李香蘭で『白蘭の歌』と題する言語に絶する愚映画を作ったが、この『支那の夜』も五十歩百歩である」「わが将兵が尊い血を流した大陸の戦跡を背景にして白粉臭い男女俳優の滑稽極まる拙劣な痴態など延々と展開されては、国民の一人として憤懣に耐えぬ」。
1940年6月9日付朝日朝刊の「新映画評」はこう酷評している。記者の署名は「Q」。戦後も映画評論家として活躍した津村秀夫だ。こうした受け止め方は、日劇前の丸の内署長とよく似ていることに気づく。
清水晶「戦争と映画」は「こうした爆発的人気の底流となったものは、当時の日本における“大陸熱”であった。事実上の植民地満州に続いて、日本の占領下に新たに建設の緒に就こうとする中国大陸への夢とあこがれは、戦後の海外旅行にも匹敵するものがあった。李香蘭は時代のアイドルスターとなった」と述べる。
日中全面戦争に入っても「敵は国民党軍や共産軍であり、中国の民衆ではない」が日本の建前だった。多くの日本人はそれを信じ、抗日を叫んでいる中国人もやがては日本人の真意を理解してくれると考えていた。その中国人の象徴が「李香蘭」だったのではないか。「李香蘭は日本人」と報じられた後、彼女と親交のあった作家・丹羽文雄は雑誌で「あるいは大衆は、彼女が日本人であったことに幻滅を感じているかもしれない」と書き、こう付け加えている。「李香蘭が日本人であってくれては困るのである」
「李香蘭がまさに圧倒的なのである」
当時の李香蘭に圧倒的な魅力があったことは、代表作となった「支那の夜」を観れば分かる。無声映画弁士出身で司会もこなした徳川夢声は、あるステージで当時歌手・映画女優として人気があった高峰三枝子、葦原邦子、李香蘭の3人と共演したが、舞台で見た印象を「李香蘭がまさに圧倒的なのである。あとの2人など、影が薄いどころか、まるで影がないくらい……」「ジャングルから飛び出してきた黒いヒョウのようだった」と「放送話術二十七年」に書いている。
鷲谷花「李香蘭、日劇に現る」(四方田犬彦編「李香蘭と東アジア」所収)は、李香蘭の魅力としてさらに、怪人二十面相になぞらえた「正体不明」「神出鬼没」を挙げている。出演した映画では「常に異なる土地に出現し、複数の異なる言語を自在に操り、さまざまな衣装を交換し続ける」。そして「彼女の残影ばかりをスクリーンにおいて眺め続けてきた日本国内の観客たちが『本物の李香蘭』にリアルタイムで遭遇することができる得難いチャンスだったのが、時折開催される映画館、劇場での実演だった」という。
晏妮「戦時日中映画交渉史」によると、大陸3部作など李香蘭出演映画は日本軍占領地で中国人に人気があり、「支那の夜」は上海で多数の観客動員を記録。一時「李香蘭ブーム」が起きたほどだったという。
それしても、官憲や新聞に厳しく批判・攻撃されるほど、日劇七回り半事件は醜態で群衆は無分別だったのだろうか。