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「紀元節奉祝」と「日満親善記念歌謡ショー」が結びついて

「朝午前9時、一億同胞が捧げた“国民奉祝の時間”である。二重橋前には早くも詰め掛けた赤子の群れが一斉に額づいてもろ手を力いっぱい大空にあげた。聖寿万歳、聖寿万歳!」。2月12日付読売朝刊社会面は皇居周辺で紀元節を祝賀する人々の様子をこう報じている。「朝まだき午前6時というに、早くも宮城前には遥拝者が続き、霜おりる夜更けまで実に50万」とも。

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 皇居周辺から日劇まではせいぜい1キロ余り。「李香蘭、日劇に現る」は「『宮城遥拝』を終えた市民たちの多くは、そこから祝日の銀座・日比谷界隈に向かったものと推定される」とし、「日本の女優」も「折から紀元節で皇居を参拝し気分が昂揚している群衆がそれに加わって」と書いている。裏付けはないが、筆者も、膨れ上がった日劇前の群衆には、皇居などから流れてきた人が相当数いたと推定する。

 李香蘭のショーは「日満親善」をうたっていた。男の半数が学生服、女が総じて20歳前後だったとすれば、群衆の大半は若者で、不良少年少女が多少交っていたとしても、多くは国の安寧と皇室の繁栄、日満親善、日中友好を信じていたのだろう。彼ら彼女らにとって、「紀元節奉祝」と「日満親善記念歌謡ショー」は抵抗なく結びついていたのではないか。

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「1日に30万の市民は必ず映画館に行く」時代

 注意しなければならないのは、このころ、映画の観客が激増していたことだ。

 事件から11日後の1941年2月22日付朝日朝刊には「映画の観客一日に卅(30)万人 娯楽追ふ(う)市民に当局びつ(っ)くり」という記事が載っている。映画館数が増えていないのに、1939年に比べて1940年は観客が1割以上増えている模様だとし、東京では市民1人が1年に16回映画を楽しみ、「1日に30万の市民は必ず映画館に行き、1つの映画館は1000名ずつの観客を収容しているのだから、日曜祭日にあの混雑を極めるのも当然なわけである」という。

 李香蘭も書いているように、ほかの娯楽がなくなっていたことが背景にあるのだろう。

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「李香蘭 私の半生」には当時、護衛役の児玉から聞いた話としてこんなことも書かれている。「日劇の隣の朝日新聞社が車を何台も壊されたのに憤慨して、李香蘭・日本人説をすっぱ抜くため単独インタビューを申し込んできたという」。さらに「私自身が“事件”の全容を知ったのは翌朝、新聞を開いた時だった。どの新聞も“事件”としての大騒動を伝えていた。とりわけ本社が日劇に隣接していた朝日新聞は被害をこうむった腹イセか〈佳節を汚した観客の狂態〉という見出しで、厳しい調子の批判的な記事を掲げていた」とも記している。