「七変化」と呼ばれ、94歳で亡くなった李香蘭
李香蘭は敗戦後「漢奸」(売国奴)の疑いをかけられたが、日本人であることが証明されて帰国。「山口淑子」となって日本の映画界やアメリカ・ハリウッドでも女優として活躍した。日本人外交官と結婚したが、テレビ番組のキャスターを務めた後、参院議員に。「七変化」と言われるほど変幻自在に時代を走り抜け、2014年9月、94歳で死去した。
訃報の脇見出しは朝日、読売とも「李香蘭」と「元参院議員」
ほかにも多くの謎がある。中国通の父は単なる満鉄社員だったのか、実業家の「養父」は元軍閥の長だったが、日本軍との関係はどうか、デビューからスターに上り詰めていく際に軍部は関与していなかったのか、「漢奸」を免れた経緯は……。謎が解明されることはないかもしれない。「李香蘭」は現代史のレジェンドとなって生き続けるのだろう。
権力者が恐れていたのは「群衆」だった
日劇七回り半事件について言えば、祝祭に群衆はつきものではないか。例えばあの紀元節の日、日劇のバルコニーに丸の内署長ではなく、李香蘭が現れ、本人か誰かが「紀元節奉祝、日満親善」を叫んでいたら、群衆は歓呼の声を上げて応じたはずだ。それから誘導、整理すればよかった。そう考えると、警察を含めた当時の為政者側は群衆そのものを恐れていた気がする。共産主義や社会主義に対する警戒、敵視が身にしみ込んでいたのだろう。さらに言えば、そもそも権力者側が「日満親善」など、本当は信じていなかったのではないだろうか。
いずれにしろ、この時のような群衆はコントロールすれば利用もできた。それを最初から警戒して解散させることしか考えず、朝日を筆頭に新聞もそれに同調して批判した。どちらも国民を信用していなかった。そうした国が戦争に勝てるとは思えない。その意味で、事件は4年半後の太平洋戦争敗戦を暗示していたような気がする。
【参考文献】
▽山口淑子・藤原作弥「李香蘭 私の半生」 新潮社 1987年
▽田中純一郎「日本映画発達史Ⅲ 戦後映画の解放」 中公文庫 1976年
▽「日本映画年鑑 昭和十六年版」 大同社 1941年
▽「キネマ旬報増刊 日本映画俳優全集・女優編」 キネマ旬報社 1980年
▽山口淑子「『李香蘭』を生きて」 日本経済新聞社 2004年
▽四方田犬彦「日本の女優」 岩波書店 2000年
▽「キネマ旬報増刊 日本映画作品全集」 キネマ旬報社 1973年
▽佐藤忠男「日本映画史4 国家に管理された映画」=「講座日本映画(4) 戦争と日本映画」所収 岩波書店 1986年
▽清水晶「戦争と映画」 社会思想社 1994年
▽徳川夢声「放送話術二十七年」 白揚社 1951年
▽鷲谷花「李香蘭、日晏劇に現る」=四方田犬彦編「李香蘭と東アジア」所収 東京大学出版会 2001年
▽晏妮「戦時日中映画交渉史」 岩波書店 2010年