「口が腐っても日本人・山口淑子とは名乗れなくなり……」
1939年11月30日公開の第1作「白蘭の歌」(渡辺邦男監督)は「李香蘭の人気で驚異的ヒット作となる」(田中純一郎「日本映画発達史Ⅲ」)。次いで1940年6月5日、日劇で封切られた第2作「支那の夜」(伏水修監督)は3週連続上映で「長谷川、李香蘭の美男美女と歌の世界で日本最高の続映記録」(「日本映画年鑑 昭和十六年版」)を打ち立て、「空前のヒットとなる」(「日本映画発達史Ⅲ 戦後映画の解放」)。1940年12月25日公開の第3作「熱砂の誓ひ(い)」も、前2作ほどではなかったが「興行成績上々」(「日本映画年鑑 昭和十六年版」)。
「白蘭の歌」公開前の広告で「満州生粋の絶世の美人スターとして全満の人気を独占し」「奉天市長を父に持つ名門の出、長じて北京の日本人学校に学んだため、日本語も実に流暢、代表的な姑娘美人です」とされた。「もはや口が腐っても日本人・山口淑子とは名乗れなくなり……」と「キネマ旬報増刊 日本映画俳優全集・女優編」の清水晶「経歴・業績」は書いている。
人気が絶頂を迎えた中で、満映から日劇で1週間の「奉祝記念ショー」に出演するよう命じられる。新聞広告は「建国祭を記念して日満歌の親善使節来る」の宣伝文句で、料金は80銭(2017年の貨幣価値に換算すると約770円)均一。「李香蘭 私の半生」によると、「彼女の出演料は7日間で8000円といわれ」「驚異的な彼女の人気を物語って余りある」。1日3回公演だったが、8000円は2017年換算で約770万円。まさに驚異的な人気だった。
李香蘭から見た「日劇七回り半事件」
2月11日当日は朝、宿泊先の帝国ホテルから、護衛役の児玉英水という東宝文芸部員の青年と歩いて日劇に向かった。「すると、真黒な人だかりが見えてきた。『紀元節だからかな』と思ってさらに歩く。人だかりと見えたのは延々と続く行列で、私が公演する日劇を幾重にも取り巻いていた」(山口淑子「『李香蘭』を生きて」)。児玉と守衛の助けを借りて劇場内へ。午前9時半から映画が上映され、「午前11時に第1回目のステージが始まった」と回想している。
「私は紫のチャイナドレス、赤い花模様の中国服、白いイブニングドレスと衣装を替えながら、『いとしあの星』『蘇州夜曲』『支那の夜』『甘い言葉』『乾杯の歌』などを次々に歌った。3000の客席を埋め尽くした観衆は私の一挙手一投足にどよめき、足を踏み鳴らし、総立ちになって共に歌う」(同書)。最後の「乾杯の歌」では「観客は総立ちになり、腕を組み、期せずして劇場を揺るがす大合唱となった」と「李香蘭 私の半生」は記述している。
「3回目のステージが終わったのは午後7時。建物の外には、入場できなかった群衆がまだ大勢いるという。児玉さんは衣装ケースにあった汚いコートを私にかぶせ、右腕に抱えて奈落から、普段は使っていない非常口に連れ出した」(「『李香蘭』を生きて」)
#2に続く