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アニメは「ムービーファイルを作ったくらいの感覚」

 ただし、彼にとってアニメーションづくりは「ゲームのオープニング映像の延長線上」という感覚だったようだ(※3)。『ほしのこえ』についても、《映画どころかアニメのつもりですらない、いわゆる「ムービー」を作ったくらいの気持ちだった》《ムービーという言葉は今ではもう伝わりづらいと思いますけど、「コンピュータで作った映像作品」くらいのもの、もっと言えば当時は「ムービーファイル」を作ったくらいの感覚でした(笑)》と語っている(※2)。『ほしのこえ』で一躍注目されてからも、『秒速5センチメートル』(2007年)ぐらいまでは、肩書は「監督」ではなく「映像作家」としていたという。

『秒速5センチメートル』(2007年)

 それでも『ほしのこえ』に続く『雲のむこう、約束の場所』(2004年)からは、複数人のスタッフを集めて制作するようになる。高校卒業後に郷里の長野から上京して以来、埼玉の浦和に住んでいたが、このとき初めて都内に引っ越した。西新宿の自宅兼スタジオには、当初、スタッフが週1ペースで通っていたのが、制作が終盤に入った3~4カ月はみんな泊まり込みで合宿状態になる。《『雲のむこう、約束の場所』という映画は未熟な部分も多いんですが、「自分たちで一本の映画を作るんだ」という初期衝動の塊のような作品でもあると思うんです。僕一人では絶対に表現できなかったものを、みんなの力を合わせることによって生み出すことができた》と後年振り返っているように(※3)、初めてほかの人たちと作品をつくった体験は、彼にとって大きなステップとなった。

『君の名は。』で「映画監督と言われてもいいかな」

 その後『秒速5センチメートル』のあと1年半のロンドン留学を経て、帰国後の『星を追う子ども』(2011年)は、初めて自宅からスタジオに通いながら制作する形となった。これを境に《「ムービー」ではなく、きちんと「アニメーション」を作ろうという覚悟》をはっきりと持ち、肩書も「アニメーション監督」に変える(※2)。それでもこのときはまだ「映画監督」という感覚はなかった。続く『言の葉の庭』(2013年)も、劇場公開されたとはいえ同時に配信やパッケージ販売も行なったため、映画館はあくまでいくつかあるチャンネルの一つという気持ちだったという。それが『君の名は。』では初めて「映画」というつもりで制作にのぞんだ。その心境を本人は次のように説明している。

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興行収入250.3億円。日本映画歴代2位の大ヒットとなった『君の名は。』(2016年)

《「君の名は。」は最初から東宝のいわゆる「本線」でかけてもらえるものを目指そうという話だったんですね。つまり、内容をエンタテインメントにするだけではなくて、夏に公開されて、シネコンへ行けば見られるというような配給の規模を意識したということです。そしてそのときはじめて、「映画監督」と言われてもいいのかなと思ったんです》(※2)