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《新海誠監督インタビュー》“三流SF”のような現実の中で僕らが出来ること

《新海誠監督インタビュー》“三流SF”のような現実の中で僕らが出来ること

「君の名は。」「天気の子」を生み出した創作の原点を語る

2020/03/06
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 だが、そんな時期も長くは続かない。成長し、環境が変わり、興味も変わってくると、いつまでも同じパソコンが好きなままではいられない。新海監督も大学生の頃には、「論文を書くためにワープロソフトを使う」くらいにしか、パソコンを触らなくなっていく。

 大学を卒業したのち、新海監督はゲームメーカーへの就職を決める。パソコン創成期からヒットゲームを多く作り、現在もファンを抱える「日本ファルコム」だ。1994年当時、ゲーム市場は拡大期を迎えていた。新海監督は、産業の成長性と将来に魅力を感じ、同社への就職を決める。

 新海監督が、日本ファルコムで出会ったのが「Mac」だった。

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「前に使っていたパソコンとは違うのだな、と思いました。まるで、定規やコンパスのような道具だな、と。」

 Macとの出会いを、新海監督はそう振り返る。就職から数年を経て、自らもMacを買う。まだまだパソコンもソフトも高価な時期だ。決して小さな出費ではない。その後、そのMacを使って作られたのが、初期の新海作品。『彼女と彼女の猫』(1999年公開)と『ほしのこえ』(2002年公開)の2作は、音楽や声などの一部をのぞき、ほぼ一人で制作したものだ。

 現在は「一人で長尺の映像作品を完成させる」アーティストも珍しくない。しかし当時は、技術的にも作業的にも、それがようやく可能になった頃だ。今までのアニメと違う制作手法でのアプローチとして、新海監督にも注目があつまっていく。

作品と観客が「監督」にしてくれた

 一方、新海監督は、自分で作品を作り始めた時、「映画監督になりたい」という意思を持っていたわけではなかった。

 では、なぜ作品を作ったのか? 彼は「そうしなければ、なにかを吐き出さなければいけなかったからです」と、当時の心境を語る。

「村上春樹の小説など、好きなものに影響を受けて、学生の頃から、断片的に色々なものを作ってはいました。ですがその時には、まだ形になっていなかった。

 そこから社会人になり、必死に働かなければいけない状況になった時に、学生時代とは色々変わってしまったんです。満員電車に揺られ、終電で帰って来る日々になると、疲れてもくるし気持ちも荒れ、新しい悩みも増えてきます。プライベートな感情、澱のようななにかがたまっていきます。

 切実に『なにかを作って外に出さないとしんどい』という気持ちになった時に、目の前にMacがあったんです」

 

 新海監督の初期作品、なかでも『彼女と彼女の猫』と『ほしのこえ』では、新海監督が当時住んでいた、埼京線沿いの風景が多数登場する。「埼京線の高架やマンション、駅までの道、コンビニなどの風景がほんとうに好きだった」と新海監督は語る。自分の中で好きなものを描き、音楽と合わせて形にしていくことが、強いモチベーションだった。

 そして、新海監督を「監督」にしたのは、作品と観客の存在だった。