日本橋本石町3丁目の薬品商と薬種問屋から発した炎は強風にあおられて拡大し、北は神田川、南は京橋川、東南は大川、西北は高架線に達する日本橋区の大部分と神田区の一部を焼き、さらに京橋区船松町にまで火の手はのびた。
京橋区八官町の芸妓屋から起った火災は、東に進んで銀座通りを襲い、木挽町をへて築地を炎に包み、その上、大川を越えて月島に飛火し附近一帯を焦土に化した。
下谷区入谷町の洋傘柄商から発した火は、北風に乗じ左右にのびて南進し、西は上野、東南は隅田川にまで達し、赤坂区田町の待合二軒と新町の蒲焼屋を発火点とする火は、東南に急進して芝区北部の中心地を突破し、古川にまで達した。
炎が炎を呼び町々を焼きはらっていく
また浅草区蔵前の東京高等工業学校からの火は、浅草区南部、外神田、下谷南部を焼いて御成街道に及び、京橋区霊岸島塩町の足袋商から上った火の手は北進して日本橋区を貫き、大川を越えて深川区に飛火し遠く越中島にまで侵入した。
神田区猿楽町の人家に起った火災は本郷区を焼き、麴町区帝室林野管理局からの火は、内務省に飛火して神田区東北部に延焼するなど、炎は炎を呼び町々を焼きはらっていった。
消防署は全力をあげて消火につとめたが、頻発した火災の勢いは激甚をきわめ、それに対抗するには余りにも非力だった。風も火災発生と同時に激しさを増し、日没頃から夜の11時頃までには風速も26、7メートルという烈風と化し、市内一面に猛火が轟々と逆巻いた。
水道は破壊され、水路が完全に断絶
さらに水道はいたるところで破壊され、浄水場の電力も絶えて水路は完全に断絶してしまった。そのため河川、濠、下水などに水を求めポンプの中継によって放水したが、その効果は薄く、避難民の群にもさまたげられて消防隊は苦闘した。中には猛火に包まれた隊もあって、22名の殉職者と124名の重軽傷者を出した。
大火災は、9月1日正午に始まり9月3日午前6時までつづいたが、東京市の43.5パーセントに達する1418万5474坪という広大な地域が焼きはらわれた。殊に日本橋区は一坪も残らず焼失し、浅草区98.2パーセント、本所区93.5パーセント、京橋区88.7パーセント、深川区87.1パーセントとその被害は甚大だった。