誰もが薄々感じつつ、しかし実際のところはどうなのか、訝ってきた疑問に本書はひとつの解答を示してくれる。直截に言えば、それはこんな疑問である。
この国は一応、三権分立の体裁をとっていて、行政府と立法府、そして司法府はそれぞれ独立し、相互にチェック機能を果たすべきはずなのに、司法権の砦である裁判所はいったいなぜ、行政府や立法府に追随することが多いのか。
たとえば、原発の再稼働をめぐる訴訟。時おり稼働差し止め判決が大きなニュースとなるが、大勢は裁判も稼働容認の方向に流れ、福島での大惨事を経験した教訓が顧みられることは少ない。本書はこう記す。
「原発の安全性(略)などを厳しくチェックする裁判長は、地方裁判所などで各種各様の裁判をこなしてきた人が多いのに対し、最高裁事務総局に勤務経験のあるエリートと称される裁判官は(略)再稼働を容認する傾向にある」
ここに登場する最高裁事務総局こそ本書が「権力の中枢」と評する裁判所のエリート集団であり、全国の裁判官の人事を牛耳り、判決にも睨みを利かせる。原発の稼働差し止めだとか、再審開始の決定だとか、基地訴訟などで住民勝訴の判決を下した裁判官は出世の道を閉ざされ、地方を転々とする冷や飯を食わされることも珍しくない。
これが冤罪の温床にもなる。検察が起訴した際の有罪率が99%超という“無謬性”はよく知られるようになったが、無罪推定原則に基づいて無罪判決を言い渡す裁判官もまた、裁判所内の秩序では疎まれがちになる。ある現役裁判官は著者にこう打ち明ける。
「裁判官って、弱いんですよ。ひとり、ひとりは、ただのサラリーマンですから」「だから当局に睨まれることなく、賢くやっていきたいという自信のないヒラメ裁判官が増える」
そのうえで著者は「あとがき」でこう記している。
「裁判官もまた弱さを抱え持つひとりの人間であり、組織として見た裁判所は、思いのほか権威に弱い。そして、人事権と予算査定権を立法府と行政府に握られている最高裁は、モンテスキューが『法の精神』で示したほどに、三権分立の理念を実践できていない」
いまにはじまった話ではない。歴史を繙(ひもと)けば、冷戦体制の宿痾と歴代政権の圧力などを主たる要因とし、リベラルな裁判官を排斥した“ブルーパージ”の残滓も司法府に影を落としている。
そしていま、確かに本書のタイトルどおり「裁判官も人」であって、「良心と組織の狭間」で苦悩しているのだろう。ただ、憲法は裁判官の身分を厳重に保障し、すべての裁判官は「良心に従ひ独立してその職権を行ひ」と定める。その本来の「良心」と「独立」を取り戻すにはどうするか。内幕の一端を抉り出した本書に続き、大手メディアも司法府の赤裸々な内実に光を当てるべきだろう。
いわせたつや/1955年、和歌山県生まれ。ジャーナリスト。2004年、『年金大崩壊』『年金の悲劇』で講談社ノンフィクション賞。同年、「文藝春秋」掲載の「伏魔殿 社会保険庁を解体せよ」で文藝春秋読者賞を受賞。他『パナソニック人事抗争史』など。
あおきおさむ/1966年、長野県生まれ。ジャーナリスト。共同通信を経て、フリーに。著書に『日本会議の正体』『安倍三代』など。