マーティン・クーニーの職業は、興行師。ヨーロッパで有名な医師に師事したという触れ込みだったが定かではない。そのクーニーが活躍したのは、十九世紀末~二十世紀初頭の万国博覧会の会場だった。彼は、保育器に入った未熟児を出し物として展示した。名付けて「赤ちゃん孵化器」である。
見にくる人々は、赤ちゃんの可愛さ半分、怖いもの見たさ半分だったのだろう。ショーは、大成功だった。当時の万博には、見世物小屋的ショーもたくさんあり、クーニーの展示もそのひとつ。隣がストリップ劇場ということも珍しくなかったようだ。
ビジネス面での成功はともかく、メディア、医療界からの評判はもちろん最悪だった。そう、未熟児を見世物にすることは、どう考えても倫理的に問題だ。だが本当に悪いのはクーニーだったのか? 現代から遡ると別の視点が開けてくる。
当時、未熟児を病院が生かすための設備は病院にほぼなかった。未熟児は、見殺しにされていたのだ。特に、双子、三つ子が未熟児として生まれるケースが多く、生存率は低かった。
未熟児を持った当時の親たちは、医者に見捨てられ子どもを救いたい一心でクーニーの展示場を訪れた。
当時、病院の医療体制が整っていなかったという見方は、正確ではない。なぜか。少なくともクーニーが展示していた保育器での生存率は、九割以上だったから。手段はあったのに、社会が未熟児を見殺しにしていた。欠けていたのは、設備ではなく、未熟児を生かすという考え方そのもの。
虚弱、奇形を生かすことは、悪い種を残すことという考え方も強く定着していた。未熟児も同じだった。当時のアメリカでは、優生思想が当たり前のものとして受け止められていたのだ。
歴史上の有名人の功績が、のちの世の視点で変更されることはある。
野口英世は、日本人の誰もが知る偉人だが、今はあまり評価されていない。その後の検証で研究の多くが間違いだったとされたから。
逆に田沼意次は一般的に悪人のイメージが強いが、不況時に大量の財政出動を行った彼の経済政策は評価されるようになっている。
一旦は、歴史の闇に消えた無名の興行師が新生児医療の最重要人物だった。歴史は更新された。
クーニーは、そもそも有名ではなかった。死後、五十年以上、ずっと無名だった人物を追いかける難しさは本書のあちこちから伝わる。
クーニーには、自伝も評伝もない。ほぼ資料もなかったはず。著者が当たっていくのは、数少ない類縁、かつて彼に興味を持った数少ない人たちが残したインタビューテープ群、そして未熟児として見世物になっていた人々(もうかなりの高齢)のみである。例えるなら、未熟児のような細くて危ういエビデンスを著者は大事に大事に一冊の本に育てあげたのだ。
Dawn Raffel/ジャーナリスト、伝記作家、短編作家。コロンビア大学のプログラムで創作の講師を務め、サンクトペテルブルク、モントリオール、リトアニア、ニューヨークなど世界の各地で文学に関するセミナーも開講。
はやみずけんろう/1973年、石川県生まれ。ライター、編集者。『ラーメンと愛国』『フード左翼とフード右翼』など著書多数。