コロナ禍によって「学力格差」が広がるというのなら逆に、このコロナ禍を「学力」の概念を見直す絶好の機会とするのはどうだろう。先般の「大学入試改革」の議論をもってしても成し遂げられなかったことである。
私たちは、テストでいい点数をとれることを「学力が高い」ととらえてしまいがちだ。“学習指導要領にもとづいてつくられた教科書のコンテンツをどれだけ多くインストールしたか”が学力の高さに直結するともいえる。学習指導要領およびそれに準じてつくられた教科書が、大学入試をはじめとする各段階での進学のための試験の出題範囲として機能しており、教科書の内容をおしなべて教えることが学校教育の目的になってしまっているからだ。
しかし本当に大切な「学力」とは、むしろ“学ぶ力”に近いものであることは、社会生活を営む大人であれば誰もが知っていることだろう。試しに考えてみてほしい。18歳あたりで受験して合格した大学入試問題をいま解いて合格できる大人は多くはないはずだ。だからといって、大学に入ったときよりも現在のほうが知的に退化したという実感もないはずだ。“コンテンツ”は忘れるが、“学ぶ力”は積み重なって消えない。
海外や私学では教科書をなぞる授業はしない
子どもたちが学校に行けない状況は海外でも同じだ。しかしおそらく海外と日本での受け止め方には違いがある。
海外の多くの国では、検定教科書など存在せず、学校や教員が好きな教材を選んで教科書として使用するしくみだ。学習指導要領のようなものはあるが、あくまでもガイドラインにすぎず、各学校のカリキュラムには弾力性がある。つまり、子どもたちが学ぶコンテンツは、通っている学校や教えている教員によってバラバラなのが前提なのだ。だから「あそこの学校の生徒が教えてもらっていることを、こちらの学校では教えてもらっていない。不公平だ」という発想にはなりにくいし、そのこと自体を「学力格差」ととらえる発想がおそらくあまりない。
また日本でも、私立中高一貫校の多くでは、学習指導要領には準拠しながら、検定教科書を実際にはほとんど使わず、学校が独自に選んだ教材や教員が独自に作成した教材を教科書がわりに使っていることが多い。たとえば1年をかけて地理を学ぶとしても、検定教科書の内容をおしなべて教えるのではなく、沖縄問題に関して割合的に多くの時間を割くなどのメリハリをつけている。担当教員によってそのバランスは違う。要するに、教える“コンテンツ”よりも、その教科の学問的視点から深く思考する“知的経験”を重視しているのである。