高橋美穂を多くの人が知ることになったのは、皮肉なことに本人が望まないアクシデントによってだった。昨年10月8日、約7時間に渡って紛糾したテコンドー協会理事会の最中に過呼吸によって倒れ、救急車で搬送されたのである。1992年のバルセロナ五輪代表であった高橋は、プレイヤーズファーストには程遠い協会の姿勢に対して、アスリート委員(会)長として選手の気持ちを伝え続けてきた。

テコンドー協会元理事の高橋美穂氏。選手として1992年バルセロナ五輪に出場している

 理事会では、責任をとる意味で自らの辞任と理事会の総辞職を訴えていた。しかし、議事は進まず、出席した顧問から逆に「高橋さんを名誉棄損で刑事告発する準備がある」との発言を浴びる。直後に体調を崩して廊下で倒れ、救急車が入る事態になるのだが、これに対し、金原昇会長(当時)が「俺も倒れようか」と笑いをとるような言葉を発した。この理事会の様子を現場の音声データとともにテレビメディアが伝えたことによって、身を挺して改革を進めようとした高橋の名は拡散した。

 騒動の2カ月後、昨年12月にテコンドー協会から金原会長は去り、役員人事も刷新された。延期された東京五輪に向けて再スタートを切ったかのように見える。果たして新生テコンドー協会は選手ファーストの組織に生まれ変わったのか。あまり知られていない高橋のキャリアと理事になった経緯、そして問題のすべての発端から、現在に至るまでを語ってもらう。

ADVERTISEMENT

昨年12月にテコンドー協会から身を引いた金原昇元会長 ©時事通信社

◆◆◆

あの五輪メダリストに誘われて……

「私がテコンドー協会に入ったのは2015年です。岡本依子さんに誘われたことが大きかったんです。私の人生にとって受けた大きな恩が2つあってそれはテコンドーと彼女からなのです。その両方のためには引き受けざるをえませんでした」

 高橋には母親に対する記憶が無い。20歳で自分を生んだ母は高橋が4歳のときに父と離婚して家を出た。父は東京で会社勤めからタクシー運転手に転職、不規則な勤務から子育ては無理と判断して、高橋を2歳年上の姉と一緒に郷里秋田の実家に預けた。現在は、にかほ市となった秋田最南端、日本海に面する由利郡象潟町である。祖母に育てられたこの町では、母親がいないことでのイジメにも遭った。「お前、母さんがいないんだろ」無知な子どもによる心無い言葉は何度も胸を抉った。当時は閉鎖的な土地柄であったのか、いつまで経っても東京から来たヨソ者とされた。