孤独だった少女がテコンドーに出会い、五輪に出るまで
ひとり遊びに慣れ、個人競技の器械体操を始めると、頭角を現し、中学になると由利郡の大会で優勝を飾った。しかし、この結果もまた出る杭となって先輩や同級生との溝を深めてしまいイジメは続いた。躾のきびしい祖母に「両親がいなくても捻るな、真っ直ぐに生きなさい」と励まされ、グレることもなく学生生活を送っていたが、高橋は中学を卒業する際にこの町を出ようと決意をする。
「ここで一生を過ごしたくない。とにかく東京に行きたかったんです。祖母には『看護師になりたい』と告げたんですが、理由は何でも良かったんです」
反対を説き伏せて受験した看護学校には準備不足で落ちてしまったが、秋田に帰る気は無く、定時制の高校に入学した。もとより実家から恵まれた仕送りがあるわけではない。病院で事務のアルバイトをすることになった。そこの医師がテコンドー日本代表のチームドクターであった。「器械体操をしていたのなら、テコンドーをやってみたら」と言ってくれた。
ソウル五輪で公開競技となったこの格闘技を勧められるままにやってみると想像以上に厳しいコンタクトスポーツであった。あざだらけになりながら、それでも高橋はそのあまりに華麗な動きにすっかり魅了されていた。定時制の授業とアルバイトを両立させながら、さらに連日道場に通い詰めて自分を追い込んだ。1991年の冬には、韓国に自費留学して本場での激烈な稽古に耐えた。氷点下での15キロに渡るロードワーク、脈拍を測りながら限界まで続ける筋トレ、そして果てしなく続く実力上位者との組手。全日本を制し、バルセロナ五輪代表に上り詰めたのは、何より努力の結晶だった。「秋田ではいつも周りの目を気にしていた私はテコンドーに出遭って、はじめて自分が出せたんです」。
「こんな強い選手がいるなら、引退できる」
岡本との出会いは鮮烈であった。バルセロナに出場後、次のアトランタ五輪ではテコンドーが種目から外されることが決まり、都合8年間の空白が出来た。高橋はどんなモチベーションでやっていけばいいのか分からなくなった。引退は頭にあるが、第一人者は代表としての大きな責任も感じている。
そんなときに全日本選手権で名前すら知らなかった相手に完敗を喫した。彗星の様に現れたのは、後にシドニー五輪で銅メダルを獲得する岡本依子だった。こんな強い選手がいるなら、心置きなく日本代表を辞められると考えた高橋は大学卒業時に指導者にも協会にも一切関わらず、スッパリ辞めて一般企業に就職をすることができた。その意味で岡本はいわば引き際を決めてセカンドキャリアに送り出してくれた恩人とも言えた。