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政権批判への「非難」「称賛」どちらもおかしい理由

 もちろん、1人の微細な声が大きなムーブメントに波及的に広がっていくことで社会が変わることはある。安保法制反対の各地でのデモを冷笑する声があったが、これに批評家の柄谷行人は「デモをすることによって社会を変えることは、確実にできる。なぜなら、デモをすることによって、日本の社会は、人がデモをする社会に変わるから」と反論した。

 その顰に倣えば「ツイッターのつぶやきで社会を変えることはできる。なぜならツイッターで社会を変えようとする人が出てくるから」というべきだろう。

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 だから、俳優であろうが、歌手であろうが、あるいは未成年であろうが、主権者である限り、どんな職業や属性であっても、時の政権の政策や方針に反対の声をあげることは批判されるべきではない。逆にいえば、それが勇気の証であるとか、新しい民意のあり方だとか称賛される必要もないはずだ。

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メディアの「民主化」が引き起こした痛ましい事件

 ネットと世論の関係においては、「分断」と「民主化」という、相反する2つの特徴が指摘されてきた。ひとつは、ネットは「集団極化」を引き起こすメディアであることだ。

 ネットと社会の分断について早くから警鐘を鳴らした憲法学者のキャス・サンスティーンは、見たいものだけを際限なく見させてくれるネットを通じて、人々の政治意識や行動規範がよりラディカルなものになっていくとした(『インターネットは民主主義の敵か』毎日新聞社、『#リパブリック』勁草書房)。

 サンスティーンが広めた「フィルターバブル」や「エコーチェンバー」といった言葉が指すように、ネットは所属や時空を越えることで特定の集団を形成しやすい。ゆえに、例えば、ネット選挙を重視していたオバマ陣営は2012年の選挙戦で、ビッグデータを用いて人種や居住地など、個人の属性に基づいた綿密な戦略を打ち立てて勝利を導いた。

 このネットならではの特性は、フェイスブックなどが収集したビッグデータを用いた英EU離脱キャンペーンやトランプ大統領が当選した2016年選挙でも表れた。

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 もうひとつは、ネットは民主化のメディアでもあるということだ。それまで膨大な設備と人材を有し、編集権を持っていたマスメディアによる情報流通の寡占状態は、個人が発信するブログ、それらが結びつくSNS、様々な情報を統合するプラットフォーマーの出現でもって崩れつつある。各国の大統領や首相、タレントや芸能人のつぶやきが世論とダイレクトに結びつくことで、マスメディアはネット世論のフォロワーになり下がっている。

 この「中抜き」現象によって、情報の取捨選択と発信は個人の手に譲り渡された。ただ、テレビという旧体制の権化のようなメディアが製作するリアリティ番組(その番組自体がネットに依存することを前提として作られていた)の出演者が自死に追いやられることになったのも、このメディアの民主化が引き起こした痛ましい事件だ。