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新メディアの「分断」問題、1920年代から言われていた

 もっとも「分断」と「民主化」という現象は、ネットに限らず、メディアが本質的に持っている特性だ。1920年代の写真週刊誌の登場は、偏見や党派的な意識を助長すると指摘されていたし、戦後にはダイレクトメールを利用したマーケティングを応用した選挙キャンペーンが登場した。

 また、ルターによる宗教革命とグーテンベルクの活版印刷によって、聖書が一般人のものとなった時から、カトリック教会の地位は低下していくことになった。つまり、ネット世論が提起するのは、「分断」と「民主化」という、社会で働く相矛盾する力学をどのように接合したらよいのかという、古くて新しい問題だ。

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 問題の解は、「分断」に対しては「熟議」を、「民主化」に対しては「反省」を対置することにおそらくあるのだろう。熟議とは、リツイートやコメント欄的な条件反射ではなく、リアルな場所での会話や討論を通じて、異なる意見と直に触れ、自らの意見が是正されたり修正されたりすることのリスクを背負う態度のことだ。

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 反省とは、自分の発言や意見がどのような結果をもたらすのかについての想像だ。外出自粛での巣ごもりが、こうしたきっかけを奪ったことが、今回のツイッター世論の盛り上がりに拍車をかけたことは容易に想像できる。

ツイッターで盛り上がった後にも考えたいこと

 日本は議院内閣制を採るが、ここでは立法府と行政府が融合しやすいため、3権分立というよりも2権分立的だ。しかも日本の最高裁は統治行為論に縛られ、違憲判決を出すのには及び腰だ。それゆえ、司法や法執行制度の独立性は今以上に強化されなければならず、そうした観点からも、確かに検察トップの定年延長は好ましいことではない。

©AFLO

 さらに、検事総長の定年延長問題は、90年代以降、政治主導を強めてきた日本の政官関係、さらに日本の官僚機構のあり方そのものに関わる事柄であるばかりか、「人質司法」の問題が指摘され続けてきた検察官の権限や検事総長・裁判官の任命権は誰が持つべきか、といった民主主義の機能のあり方と深く関係する議論と地続きにある。

 少なくとも、これらはネットを介した世論だけでは解答を見いだせない問題であることは確かなのだ。