日本でもかなり珍しい「丹沢そば本店」のビジネス
一般に、そば屋を営むには川上から川下までさまざまな協力企業が必要となる。そばを生産する農業従事者、玄そばを粉にする製粉会社、仕入れる場合は麺を作る製麺会社、そしてそば屋があって、消費者においしいそばが提供される。
「丹沢そば本店」は、その川上から川下まですべて自社で行っているという稀有な存在なのである。さらに、「丹沢そば本店」で販売するだけでなく、大手の百貨店やPB(プライベートブランド)や他店のブランドとしても育成・卸販売し、川下のさらに先の流通にまで関与している。つまり、1次産業(そば生産者)、2次産業(製粉製麺加工)、そして3次産業(販売流通)まで、農産物の6次産業化におおいに貢献し、国が推し進める政策という点でも、秦野を中心にした神奈川県西部の地場産業に大きな反響を与え続けている。もちろん石井社長は6次産業化の認定農業者である。
秦野では、たばこ生産の裏作でそばを作る農家がかつてはあったそうだ。先代の庄太郎氏が秦野の地で「石庄丹沢そば」をはじめ、そばの生産を始めたのは昭和34年。つまり、そば屋ではなく、そばの製麺を中心にスタートしたというわけである。
「プロのカーレーサーだったんです」
4人兄弟の三男だった石井社長ははじめ全く別の仕事をしていたそうだ。石井社長はちゃめっけたっぷりに話し出した。
「和食の料理人もやっていたし、実はプロのカーレーサーもやってたんですよ。1971年から開催された富士グランチャンピオンレースの前座の大会によく出場していました。だからそばの世界にはタッチせず、兄達が仕事を継いでいて、販売などにも力を入れていたので、その状況をずっと外の立場、つまり、消費者目線でみていたのです」
その後、多角化などで経営が厳しくなり、石井社長が参画することになった。その当時、石井社長がもっとも必要性を感じていたことは、「バラツキのない旨いそばを作るにはどうしたらいいか」という一点だったという。
「当初、そば粉は製粉会社から仕入れ、そばを生産していたのですが、どうしても味にブレがでてくる。製粉会社任せだったわけです。それを改善する方法はないか毎日考えていました」
「秦野で裏作として作られていたそばを生産してみよう」
そば屋は製粉会社を変えたり、値段交渉したり、いい粉を仕入れることに腐心する。石井社長はそういう方法は考えなかったという。
「秦野で裏作として作られていた歴史があるそばを生産してみようと考えたんです」