ただし『実話時代』ではクレームのすべてを編集部が受ける決まりになっていた。記名原稿であっても、謝罪の場にライターを同席させることはほとんどなかった。雑誌に載せたものは、編集部がすべての責任を負うので、書き手は気が楽だったろう。安心してヤクザ記事を書ける媒体として、『実話時代』は独特の存在感があった。『実話時代』方式に慣れた書き手が、同じような調子で他誌に記事を載せ、強烈なクレームに遭遇し、絶筆騒ぎになったこともある。他誌は『実話時代』のように、あらかじめクレームに繋がりそうな記述を精査するなどという作業はしない。
ヤクザによる原稿チェック
表面的には紳士な関東ヤクザのほうが、幹部たちのチェックはきつい。原稿を事前にみせるよう要求してくるのはもちろん、幹部たちがよってたかって、我が親分をありえないほど高尚な人格を持つ侠客にしてしまうのだ。
「あんたたちにも表現の自由がある。勝手に書くのは仕方ないが、間違ったことを書かれると困るので取材しにこい」
と言ってくれるのは、大半、西日本の組織である。
本来、客観的に事実を書くなら誰の許可もいらない。しかし、東日本の組織取材に、その大原則は通用しない。それを突っぱねられないのは、専門誌である以上、取材拒否をされると雑誌が立ちゆかない弱みがあるからだ。記者クラブが、警察批判をできないのと一緒だ。
ヤクザ社会には「利口で出来ず、馬鹿で出来ず、中途半端でなお出来ず」という格言がある。その言葉は私に鋭く突き刺さる。
暴力団批判を続けるために
私が編集部を辞めたのは、相応の報酬が欲しかったからだが、ヤクザと持ちつ持たれつの組織に属していては身動きがとれなくなるという焦りもあった。すべてを個人で背負い込まないと、暴力団の批判が出来なくなる。私の書いたことで仲間たちに迷惑がかかったり、取材拒否になるのは避けたい。これだけ多種多様の価値観が溢れる社会のなかでは、それぞれに立場がある。どれが正義なのか、善なのかという結論はどこまでいってもでない。