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検察側の予告のような文言だった

 この言葉に続いて検察官がさらりと発した言葉に、思わず息を飲んだ。

〈さらに、被告人両名は、同8年(96年)2月26日ころに由紀夫が死亡した後も、引き続き、片野マンションにおいて、被害者甲に対し、上記同様の通電等の虐待を加え続けるとともに、「あんたが父さんを殺した。時効になるまでは一緒に暮らさんといけん。」などと、同被害者にはその責任は全くないにもかかわらず、その全責任を同被害者に一方的に押し付けて同居を強い、同被害者を支配下に置いて意のままに従わせ続けた〉

 そこでは、いまだに事件化されていない由紀夫さんの死亡について明言し、その日付を初めて明らかにしたのである。それは今後、由紀夫さんの死亡について事件化するという、検察側の予告のような文言だった。

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 父親の由紀夫さんが死亡したのは、清美さんが間もなく小学5年生を終えるという時期のこと。その後も引き続き、彼女は松永と緒方、そして彼らの子供と片野マンションで暮らすことになった。ちなみに、緒方が次男を出産したのは由紀夫さんが死亡した約1カ月後の平成8年3月で、4月に清美さんが小学6年生になったときには、松永と緒方、そして3歳と0歳の子供2人と同居していたことになる。

 その半年後である10月下旬、松永は北九州市小倉南区にアパート(曽根アパート=仮名)を借りさせていた被害者乙の裕子さんと清美さんを同居させ、南京錠で施錠した4畳半和室に閉じ込めていた。しかし裕子さんが平成9年(97年)3月16日に逃走したことで、清美さんはふたたび片野マンションに連れ戻される。

〈被告人両名は、曽根アパートから逃走した後、被害者甲が中学校に進学する平成9年4月上旬ころまでの間、同被害者(清美さん)に対し、南京錠で施錠した片野マンション洗面所に居住することを強いた上、それ以降も、同被害者を片野マンションに居住させ、前記同様に通電を繰り返すなどして、引き続き、同被害者を支配下に置き続けた〉

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真新しいメモ帳に架空のスケジュールを書いていた

 冒頭陳述には出てこないが、地元の公立中学に入学した清美さんは、松永から学校が終わるとすぐに帰るよう念を押され、通学路にある小倉中央郵便局の角にある公衆電話から、かならず電話をかけるように命じられていた。片野マンションに帰り着いてからは、ひとりでラジオを聞いて部屋で過ごし、ほぼ毎日、午後6時から7時の間に、松永からの電話で、彼ら家族が寝起きしていた小倉北区東篠崎にある東篠崎マンション(仮名)に呼びつけられている。そこで部屋の掃除をしたり、怒られて通電されたりしては、午後11時に片野マンションに戻っていた。

 私が取材で得ていたのは、中学時代の清美さんは、休みがちながらも学校に通い続け、友達の前では笑顔を見せていたということ。当時の彼女は、真新しいメモ帳に架空のスケジュールを書いていた。それは、カラオケに行ったり、コンサートに行ったりという、実際にはない予定だった。

「自分に何も楽しい予定がないのを同級生に知られると、学校で仲間に入れてもらえないと思って、嘘を書いていた……」

 そのように彼女が警察での事情聴取で語っていたことがわかっている。