日韓歴史問題を“乗っ取ろう”とした尹美香夫婦
驚いたのはジュネーブに尹美香と金三錫(キム・サンソク)夫婦がいたと聞いたことです。夫婦はホテルで一緒の部屋に宿泊していたというのです。
尹美香は挺対協の事務局長なのでわかります。夫がなぜいたのか聞くと、当時、彼は韓国太平洋戦争犠牲者遺族会の事務局長職に潜り込んでいたというのです。
彼らは夫婦で日韓歴史問題を“乗っ取ろう”としていたのではないか、と私は思っています。
尹美香氏は後に挺対協の代表となり慰安婦問題を利権化していったことは周知の通りです。一方で金三錫氏は事務局長職を得たものの、1万6千人もの会員がいて、かつ口うるさい老人老婆が多い遺族会を束ねきれず、三か月あまりで退任し逃げだすことになります。
金三錫氏は民族解放派とか、セクトだとかいう噂が付きまとう人物で、遺族会事務局長を辞めた後の1993年、北朝鮮の工作資金を受け取ったとして、妹とともに軍事機密漏洩などの罪で起訴、服役しています。この兄妹スパイ疑惑は再審請求により、国家保安法違反は認定されましたが、その他は無罪となりました。とにかく尹美香氏夫婦の背景には後ろ暗い物がいつも見え隠れしていました。
日本政府による元慰安婦への聞き取り調査を拒否
私は運動家ではありません。それでも銀座デモや国会座り込みを敢行したのは、まだ解決していない問題が残っていることを日本人にも訴えたかったからです。元慰安婦や軍人軍属遺族たちの悲しみや苦痛を解決できるのは、日本政府しかないのです。
元慰安婦のハルモニ(おばあさん)も「言いたいこと言って、胸がスッキリした」とか「デモって楽しいね」と言ってくれた。一方で、活動資金には苦労しました。
資金を作るためにキムチを売ろうとなりました。私の自宅の風呂場を使って、元慰安婦のハルモニ指導のもとキムチを作り、国会前で販売したこともあります。私は遺族会の人たちや元慰安婦のハルモニと交流を深めていくうちに、彼らの希望――“戦後処理”を正しく行うべきだという考えを一層強くしていきました。
1993年7月、日本政府も慰安婦問題への取組を本格化させるようになりました。 在韓日本国大使館・参事官だった武藤正敏氏は、まず挺対協と交渉を始めました。挺対協は「日本政府は調査をしろ」等と訴えていたので、日本政府として元慰安婦の聞き取り調査を行いたいと打診したのです。
しかし「日本は信用できない」と言って挺対協は調査を拒否した。このとき、なぜ拒否をしたのか私には未だに理解ができません。