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「お金をあげるから事務所に来なさい」慰安婦支援団体がいかに日本政府の調査を妨害したか

「挺対協」“嫌韓”を作った組織の30年 #3

2020/06/15

 挺対協(現・「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」)の不実について告発した元慰安婦李容洙(イ・ヨンス)氏の記者会見によって韓国社会は大揺れに揺れている。

 はたして挺対協とはいかなる組織なのか。彼女らの実態をよく知る日本人がいる。

 その女性の名前は臼杵敬子氏という。ライターとして女性問題に関心を深く持っていた臼杵氏は、半生を韓国太平洋戦争犠牲者遺族会を支援するための活動に費やした。90年代から議論が始まった日韓歴史問題を、最も間近で見つめてきた日本人の一人であるともいえよう。

 本連載では臼杵氏から見た、なぜ慰安婦問題が歪んでしまったのか、その真実について回想してもらう。そして挺対協とはどのような組織だったのかを、当事者として批評してもらおうと考えている。(連載3回目/#1から続む)

尹美香(ユン・ミヒャン)前正義連代表 ©AFLO

挺対協は被害者や遺族を差別してきた

 挺対協が被害者や遺族を差別してきた、という場面を私も何度も見てきました。

 私と韓国太平洋戦争犠牲者遺族会が国会で座り込みのデモを行っていたときのことです。弁護士で活動家の戸塚悦朗氏と挺対協代表の尹美香(ユン・ミヒャン)氏が突然、視察に来ました。差し入れをするのでも、激励するのでもないのです。

 尹美香氏は「こんなことやって効果あるんですか?」とでも言いたげに、馬鹿にしたかのような笑みを浮かべていました。彼女の笑みに蔑んだものを感じたことを覚えています。

 話は少し過去に遡ります。韓国太平洋戦争犠牲者遺族会と私は運命的な巡りあわせで出会いました。

 1990年6月、韓国太平洋戦争犠牲者遺族会のメンバーが、問題を訴えるために釜山からソウルまでを徒歩で500キロの大行進を行いました。当時、ライターをしていた私は取材で駆け付けました。

 遺族の人々はこう叫んでいた。

「お父さん! 生きてるんですかー? 死んでいるんですかー? 」

 当時、私は日韓基本条約で問題は全て解決しているはずだと思っていました。しかし、戦後40年以上が経過しても、まだ生死すら確認できていない韓国人兵士や徴用者が多数いることを始めて知った。基本的な問題である生存確認すら出来ていないのかと驚きました。これで「全て解決した」といえるのかと疑問を持ちました。

韓国人、韓国を叱る: 日韓歴史問題の新証言者たち」 (小学館新書)

「英語も話せないくせに、何で来た」

 遺族会共同代表(当時)の梁順任(ヤン・スニム)氏と出会ったことで、私は遺族会が起こした東京裁判を支援することになりました。私は弁護士選定から原告の聴取までをバックアップして手伝い、遺族会の様々な相談にも乗りました。

 そうこうしているなかで、1993年春、ジュネーブの国連人権会議で慰安婦問題を訴えるという話が出たのです。

 国連で問題を訴えるという手法は、挺対協に近い戸塚悦朗氏の発案だったようです。戸塚氏は92年にも国連人権委員会で慰安婦問題などを提起したことがあった。ジュネーブへは韓国政府の支援のもと、梁氏や挺対協のメンバーが行くことになっていました。私も「一緒にきてほしい」と梁氏に誘われましたが、日本国内で活動することに意味を見出していたので乗り気になれず、同行を断りました。

韓国太平洋戦争犠牲者遺族会共同代表(当時)の梁順任(ヤン・スニム)氏 ©︎勝山泰佑 

 ジュネーブでは慰安婦問題や遺族の問題が提起される予定でしたが、挺対協は梁氏を「英語も話せないくせに、何で来た」と蔑んでいたそうです。梁氏は、現地で開かれた食事会にも呼ばれず孤独な思いをしたと、後に聞きました。