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さすが名人、泰然自若の振る舞い

名人戦七番勝負は4月に始まる予定だった

 ちなみに飲食店の店員が付けるようなフェイスガードもテストしたが、光が反射して相手や盤面に影響が出てはいけないと考えて断念したという。初めての名人戦、初めての持ち時間9時間での対局。入念に準備するのは、やはり盤上だけではなかった。

 こうなると気になるのが、突然忍者を前にした側の反応である。豊島名人は最初のうちはまじまじと渡辺三冠がマスクをつける様子を眺めていたものの、すぐに視線を盤上に戻し、以降は気にするそぶりを見せない。

 さすが名人、泰然自若の振る舞いだと感心していたが、それだけでは終わらなかった。しばらく経ったあとに、自分のマスクを外したのだ。

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 基本的に関係者のマスク着用は義務だが、対局者はその限りではない。息苦しさから思考に影響が出そうなときには、自分の判断で外しても構わないのである。

 ご本人に聞くことでもないので以下は私の想像だが、もしかしたら豊島名人は渡辺三冠のフェイスカバー新手を切り返す方法を熟考し、「そうだ、マスクを取ったらこちらのほうが快適だ!」と思い至ったのではないか。だとしたら見上げた負けず嫌い、実にあっぱれではないか。

 もっとも豊島名人はそのまま通すのではなく、しばらくすると再びマスクを付けていた。渡辺三冠もフェイスカバーと通常のマスクを行ったり来たり。2日目の夕方以降は、両者ともマスクを外して難解な終盤を戦っていた。マスクにまつわる駆け引き、新手マスクの登場(?)は今後のタイトル戦での注目ポイントになりそうだ。

最後までソーシャルディスタンスで

 既報の通り、第1局は144手まで渡辺三冠が勝利を収めた。豊島名人も敗れたとはいえ、頂上決戦の名に恥じないハイレベルな戦いを見せた。3ヶ月近く公式戦を指していなかったことを考えれば次局以降の上積みは十分だろう。

 感想戦後には、当初はやらない予定だった打ち上げが行われた。通常時の打ち上げは立食でビールを注ぎ合うかたちが多いのだが、さすがにこの状況でそれはまずい。一定の距離をおいたそれぞれの席に料理が並べられ、ビールは手酌。それでも皆の顔を見て、話をしながらの食事はよいものである。最後にやっと、いつものタイトル戦の雰囲気を味わうことができた。

終局後の打ち上げの様子
海の幸山の幸がならぶ

 新しいタイトル戦の様式がどのようなものになっていくか、まだまだ試行錯誤は続いていくだろう。ひとつ言えるのは、それぞれが協力しあい、配慮を怠らずに作っていく姿勢が重要ということ。今回の名人戦第1局が、成功のモデルケースとして後々の役に立てばよいなと思う。

 名古屋からの帰りの新幹線は、やっぱり渡辺三冠の隣の席が指定されていた。名人戦は家に着くまでが名人戦。最後まで油断せずに席をひとつ空け、お互い疲れていたこともあり、のんびりとそれぞれの時間を過ごした。

 新横浜を過ぎ、多摩川を渡るあたりで、安心したのか少し眠たくなってきた。

「じゃ、お先に」

 渡辺三冠の声が聞こえた気がしたが、彼の姿はもうどこにも見当たらなかった。

写真=後藤元気

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