オープンは1948年、まだ新宿には焼け跡ばかりで、天気のいい日には通りから富士山が見えた頃だったという。当時、コーヒーや軽食をメインにする店は珍しく、すぐに多くの客が訪れるようになったそうだ。食うことで精一杯の時代、嗜好品を楽しむことのできるあぶく銭を持ち、優雅な時間を過ごすことのできる特権階級は、闇成金やヤクザ、そして愚連隊といった不良たちしかいなかった。裏社会の住人が足繁く通う様子を見て、新宿(ジュク)の人々はこの店を『地獄谷』と呼んだ。加納はその頃からの常連だ。
文化人も引き寄せられる名店だった
そののち、時代が変わり、社会が秩序を取り戻すと、今度は多くの文士や役者、活動屋たちが顔を見せるようになった。だが、常連といえば、売れない芸術家崩れで、やはりカタギとは言えない人間ばかりだった。安酒を片手に芸術論を戦わせるが、勘定になるとどうにも様にならない。結局はツケということになり、ママがすべてを立て替える様子は、まさにお母ちゃんというにふさわしいものだった。なかには数年間ただ酒を飲んだ文学青年もいるというから、ママの器量も相当のものだ。
武田文章、五木寛之、そして阿佐田哲也(色川武大)など、みなボタンヌの自由な空気に引き寄せられた。彼らのおかげで編集者やジャーナリストたちも出入りするようになり、西尾末広の孫や元満鉄総裁仙石貢の孫娘たちが「七光り会」を作ったり、人物往来社社長の八谷政行の「虚業党」や「関東な組」もここで生まれている。
『麻雀放浪記』誕生秘話
昔話を聞くのは楽しかった。
「武田さんは無口でね。自分が堅いものばかり書いてるから、酔うと『俺は絶対に五木を認めない』なんて言ってた。でも優しいのよ。五木さんも、みんな紳士だったわね。色(川)さんだってそう。なんだか大先生になっちゃったけど、売れてからも飾らない人でね。ずっと貧乏で、10年くらいツケだったのかな。それも売れたときに全部払ってくれた。