加納は昔話をただ笑って聞いていた。
「そうだったかなぁ……」
という相槌は、否定ではなく照れだったのだろう。自分の武勇伝や死んでしまった仲間たちのやんちゃな思い出は、そのすべてが加納をヒーローとして捉えている。懐かしいと同時に恥ずかしい青春の思い出だったに違いない。1時間ほどすると笑顔のままトイレに立ち、「そろそろ帰ろうか」と催促した。長時間居座ることはなかった。
その汚さも味のひとつだった
車で加納を新宿中央公園裏のマンションまで送り、とんぼ返りでボタンヌに戻り、閉店を手伝ってから、職安通りから一本脇道を入ったママの木造アパートまで送った。晩年近く、ママは出勤途中でひったくりに襲われたため、店に顔を出したときは運転手をしなくてはならなかった。夜中、タクシーを使わず、新宿の端から端まで和服姿のおばあちゃんがよたよた歩いて帰るのだ。泥棒にすればいいカモである。ビールで酔っぱらっているのはいつもママで、私は毎度自分で洗ったコップで水道水を飲んでいた。これで合計1万円。私もかなりいいカモだろう。
快適に過ごせるよう、扇風機などを買って持ち込んだ。ときどき大掃除も手伝った。店の鍵はいつも玄関先のビール箱の下に置いてあるので自由に出入りができた。
何回か泊めてもらったのだが、体中がムズ痒くなってやめた。
「バルサン焚きませんか?」
「そんな薬怖いわ。いやよ。掃除さえしていれば死にはしないんだからいいじゃない」
ボタンヌは最後までその汚さを貫徹した。
戦後の新宿の姿を残し続けた店だった
1年も店に通うと話のネタも尽きてくる。和やかな昔語りは定型化しており、ほとんど変化のないままそれが繰り返される。年寄り同士は楽しいのだろうが、2周目、3周目になるとしんどかった。それでも加納は死ぬまでボタンヌに通った。ただママの話を聞き、時々「ワハハハ」と笑うだけのために……。
ママの昔話は、加納にとっての精神安定剤だったに違いない。わずか数年の栄光が加納を支えていた。加納が死んですぐ、ママも亡くなった。戦後の新宿を語れる仲間がいなくなり、淋しかったのだろう。