「鬼」は必ず殺される
ただし、注意しておく必要があるのは、炭次郎は、鬼を「殺さない」という選択は基本的にしないことだ。あるエピソードでは、とある理由で鬼の首をはねる際に痛みをなくす技を使うシーンが出てくる。ただし、「鬼」であり、人を食った存在を殺すことはやめない。この点は、炭次郎は「引きこもり」を卒業し、「決断主義」のルールを徹底していることをあらわしている。また、善逸も「引きこもり」を体現するキャラクターではあるが、受忍限度を超えた緊張状態に達すると眠ってしまい、その状態では強力な技を使って鬼を屠る。
つまり、このように構造で見てみると、2010年代に連載が始まった『鬼滅の刃』は、90年代的想像力である「引きこもり」と、ゼロ年代的想像力である「決断主義」をどのように調整して生きていけるのか、について描いた作品だと捉えることができる。主人公は心根は優しい少年だが、社会がそのままでは生かしておいてくれない。力を得て、自分の責任でスピーディーに決断し、鬼を殺す存在となる。とはいえ、元の「優しさ」は消えてはいない。残酷なバトルロワイヤルの「決断主義」の世界にあって、その「優しさ」や「思いやり」「人間性」が、事態を変えられるのかを問うた、現代社会の問題を考えさせる「リアル」な物語として読むことができる。
複雑化する「間」の存在
人間と鬼の「間」の存在として、主人公の妹である竈門禰豆子が登場する。そうすると、これまでの『進撃の巨人』『東京喰種 トーキョーグール』『亜人』とは構造が異なっていることになる。主人公の炭次郎は鬼の要素はないため「間の存在」ではないように見える。この「間の存在」に着目して、さらに分析を進めてみよう。
実は、「間の存在」は禰豆子だけではない。物語が進むと、珠世(たまよ)と愈史郎(ゆしろう)(*4)という鬼が登場する。
*4 実は、この二人のキャラクターは、『鬼滅の刃』の前身である短編『過狩り狩り』にすでに登場している。
この二人もほかの鬼と同様に、元は人間だったがとある理由で鬼となっている。鬼は通常、鬼舞辻無惨の支配下にある。離れていてもその生殺与奪の権は無惨が握っており、場所も把握されている。ところが、この二人は、その支配から逃れて、無惨とは敵対しており、むしろ鬼殺隊の味方をする。珠世と愈史郎は、「存在としての間の存在」と名づけることができる。基本的な性質は鬼でありながら、人間に襲い掛かる性質を克服し、人間の味方をする。