文春オンライン

ゾンビ学を通じて見た『鬼滅の刃』のヒットの理由とは

『大学で学ぶゾンビ学~人はなぜゾンビに惹かれるのか~』より #2

2020/07/07

人間、鬼、そして「間」の存在

 一方で、『鬼滅の刃』には、「力としての間の存在」と言える人々が登場する。鬼殺隊員は、人間でありながら、鬼と戦うために、常人では到達不可能な力を手に入れる。炭次郎の師である鱗滝左近次のような育手(そだて)と呼ばれる剣士を育てる人々が各地にいて、個別に弟子を取り、鍛えていくが、その過程で、「全集中の呼吸」と呼ばれる呼吸法を教えられる。この呼吸には、それに伴って火や水、雷、愛といったさまざまな剣技の型がある。また、鬼殺隊の隊士が持つ刀は日輪刀(にちりんとう)と呼ばれる特殊な刀で、鬼はこれで首を切断されるか、太陽の光に当たらないと死なない。鬼殺隊員の中にも、特異な「間の存在」がいる。それは、鬼を食うことで鬼の力を発揮することができる不死川玄弥(しなずがわ げんや)だ。彼は、全集中の呼吸が使えず、その代わりに、鬼の体を食べ、瞬時に消化、吸収することで鬼の力を得て戦う。

©iStock.com

 そして、存在としても、力としても間の存在となってしまったのが、炭次郎の妹である竈門禰豆子なのだ。『進撃の巨人』『東京喰種 トーキョーグール』『亜人』などでは、主人公が否応なく、身体的に、異人間になってしまい、間の存在となる。『鬼滅の刃』では、その「身体的に」「否応なく」間の存在となる役割を担っているのが禰豆子だ。炭次郎は、禰豆子という「間の存在」の兄であると同時に、力としての間の存在となり、かつ、前節で確認した通り、性格として持っている「優しさ」によって、鬼にも同情の気持ちを忘れない「気持ちとしての間の存在」にもなっている。

ゾンビ作品特有の視座が構造・特徴を明らかにする

 以上、見てきたように『鬼滅の刃』は、人間と鬼、双方の陣営でも価値観が多様であり、かつ、さまざまな意味での「間の存在」が登場するコンテンツになっていることがわかる。このことが、個性的で多様なキャラクターを生みだすことにつながっている。このように『鬼滅の刃』は、ゾンビ・コンテンツでこれまで描かれてきた「価値観の対立」の問題を中心に見てみると、その構造や特徴がより鮮明に見えてくる。炭次郎は、無事に禰豆子を人間に戻すことができるのか、鬼殺隊員たちは、鬼たちはどうなるのか、このバトルロワイヤルな世界はどのように終焉を迎えるのか、あるいは、迎えないのか、その結末が実に楽しみである。

この記事の写真(5枚)

ツイッターをフォローして最新記事をいち早く読もう

文春オンラインをフォロー