大抵20歳代で、最年少は20歳だった。年に10通は来ていただろう、こうしたラブレターを読むと胸が痛んだ。
嘘をついていることに対し良心がとがめる上、加納はそうした手紙を読もうともしないのだ。この手紙はさすがに読んでもらった。もっと露骨な求愛のメッセージが多かった。
「捨てておいてくれ」
さすがにそれもできず、何通か「加納さんは忙しいのでお会いできませんが喜んでいました」と適当に返事をした。なかにはストーカーめいた女性もいて、「加納さんに会わせてください」と編集部に押しかけてくるときもあった。
離れていく舎弟たち
自由を大義名分にした漂泊者の哲学は、加納の作ったグループにも当てはまる。
愚連隊には親分・子分という疑似血縁制度がない。兄・舎弟のそれ、しかも口約束だけが唯一の絆だ。しかし舎弟が喧嘩になっても、加納は一切助太刀をしない。これではまったくグループの意味がないだろう。
また、せっかく新宿の暴力社会でも有数のスターになったというのに、加納は舎弟たちに一切、ゆすりたかりをさせなかった。自分は金持ちだからそれでもいい。暴力団から差し出された和解金を蹴ることもできるし、かっこよく人助けをして、謝礼を受け取らなくても生きていける。しかし、加納が舎弟たちに生活費を与えていたわけではない。自然、彼らは加納の目の及ばない部分で悪さをする。それが露呈したときだけ、加納は烈火のごとく怒った。霞を食って生きろと命令されるようなもので、舎弟たちはどんどん加納の元から離れていった。
加納貢が暴力社会で輝けた理由
が、戦後の一時期、たしかに彼の愚連隊はあった。それはなぜか?
矛盾が成立したのは、暴力社会の競合者であるヤクザ組織が弱かったからだ。ライバル不在のため、まとまりのない集団は外見を取り繕うことができたのだろう。「当時は事務所なんかない。定期的に集まるなんてこともない。朝起きて、なじみの喫茶店でコーヒーを飲んで、玉突きにいく。夕方になれば飲みに行って、それで終わりだ」(加納の舎弟H氏の談話)
当事者たちにきくと、その生活はいまはやりのニートのようなものだったのではないか、とさえ思う。ここに加納の犯した大きな罪がある。漂泊の人生を送りたいなら、他人を巻き込んではならない。女に対しては首尾一貫していたくせに、男に対しては「自分のもとにいればなんとかなる」という幻想を植え付け、それを否定しなかった。霞を食って生きて行けるのは、加納しかいないというのに……。