責任を負うことを嫌い続ける
舎弟たちは加納を敬愛しながら、同時に憎んでいたふうだった。だいぶ後になってからだが、加納は毎月一度、10日に新宿某所で定期的な集まりを開くようになった。大抵、10人から20人くらいの人間が集まり、現役の暴力団も時折顔をみせた。メンバーはいつも決まっていたが、ときどき昔の舎弟たちがこの集まりにやってくることがある。
あるとき、偶然、10人近くの舎弟たちが集まった。ひょんなことから舎弟たちが、ののしり合い、口げんかをしはじめた。加納はそれをまったく止めず、ただ自分の席に座っていた。加納のグループにはなんのまとまりもなかった。場は気まずい空気が漂い、せっかく顔を見せた舎弟たちは二度とその場に現れなくなった。
雑誌ではこれを「権威を嫌った加納の平等主義」とか、「加納はすべての人間が平等と思っている」と美辞麗句に変換する。が、それはとても実情に合った表現とはいえない。責任は持ちたくないが、チヤホヤされるのが気持ちよかったのかもしれない。まだ暴走族のリーダーのほうがまともである。
愚連隊の帝王はいつしか厄介者扱いされるように
時間が経つにつれ、1人、2人と人間が離れていった。年老いた加納は財産を失い、これといった使い道もなかった。行動を共にしていれば、延々と青年のような理想論を聞かされ、おまけに飲み食いの金がかかる。こんな厄介者にくっついていても、なんらメリットなどないだろう。
月一開かれる懇親会のパーティーに来る人間たちは、みな加納に恩があった。断れない理由はそれぞれだが、たとえば過去、加納からかなりの金を借りたメンツだ。そんな昔なじみに加え、ごく最近加納を知ってその過去に憧れた人間たちもやってきた。上っ面の、短時間の付き合いなら、神話に触れられ相応の満足感はあったろう。とにかく外面だけはいい。金もないのに気前もいい。