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責任を逃れたい軍事指導者の心理

 このドゥリットル隊は、日本本土から1200キロ沖の洋上に浮かぶ空母より発進し、2000キロ先の中国大陸まで飛ぶコースをとったのだが、そもそも日本の軍事指導者たちにはこのような攻撃にたいする認識がまったくなく、防衛は完全に後手に回り、以降、戦争の実情を知らなかった日本人は、イヤというほど戦場体験をすることになるのである。山本はそのことを理解していたように思うのだ。

写真はイメージ ©iStock.com

 緒戦の戦況の変化を見ていると、日本軍は破竹の勢いで東南アジア各地に進撃したことがわかるし、その成功は日本の奇襲攻撃にまだアメリカも戦時体制を整えていなかったからとも言えた。

 しかし私はこのような戦況をなぞりながら、これは戦況についての推移でしかなく、こうした戦況の陰にある戦場の指揮官と兵士の間の動きを見るという視点は失ってはならない、との思いをもつ。つまり、軍事指導者が戦勝に浮かれるのは、本来戦争がもつ残酷な側面(それは兵士が、あるいは国民が死ぬということなのだが)を忘れようとするからではないかと思われる。国民に甘い幻想をふりまくことは、軍事指導者の責任逃れという一面がある、ということだ。

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軍上層部への不信、国民の軽薄さへの憂い

 山本はこのような増上慢に不満を持ち続けていたことが明らかになっている。軍の上層部とそれに踊らされる国民への不信感である。半藤一利の『山本五十六』には、そのような山本の姿が次のように書かれている。山本は「絶望的な日本人論」をもっていたという。

 海軍中央に不信を持ち、麾下の艦隊幹部の能力を疑い、そして日本民衆の軽薄さを憂慮し、山本は負けるが必然の戦いを、一人で、悲壮に戦っていたのではあるまいか。山本はよく冷笑して言っていた。

「扼腕憤激、豪談の客も、多くこれ生をむさぼり、死を畏るるの輩」(半藤一利『山本五十六』平凡社)

 山本が、自らの部下に対して厳しさと温情とで接したことはよく知られているが、戦争初期のなかでいつの日か軍事指導者が部下や日本人を見捨てること、「生をむさぼり、死を畏るるの輩」がそうした連中であることを知っていたのではないか。私はそこに山本の人間的な側面を見るだけでなく、戦場の指揮官と兵士との信頼に似た関係を見出すのである。