パイロットが搭乗したまま航空機を敵艦に突っ込ませる特攻隊の「体当たり作戦」は、「私には、100パーセント死ぬ命令をだすことはできない」と語った海軍航空部隊の隊長がいたというほど、生還の望みをもてないものだった。
作家・保阪正康さんの著書『昭和史七つの謎と七大事件 戦争、軍隊、官僚、そして日本人』(角川新書)より、特攻の始まり、そして特攻隊員たちの知られざる本音について一部を抜粋する。
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特攻の始まり
初めて戦術としての組織的な特攻隊の出撃は、昭和19年10月25日。海軍の神風特攻隊である。
この年、各地の守備隊が次々玉砕するなど、戦況は著しく日本に不利となった。軍事指導者たちの無能ぶりからなんら打開策が見いだせないまま、戦争はズルズルと泥沼に陥り、犠牲者をいたずらに増やしていた。その中から出てきたのが「体当たり攻撃」作戦だった。
まず海軍が、人間魚雷「回天」を開発した。もっとも初期の段階では、回天には脱出装置をつけようとしていたのに対し、陸軍は、もともと明治期から肉弾戦を行っており、航空機による体当たり攻撃戦術も、自然と生まれてくる土壌があった。参謀次長兼航空本部長・後宮淳の言葉に、如実に表れている。
「突撃は歩兵の精華であり、体当たりは航空の突撃である。これこそが日本陸軍の真の精神である」
そして、海軍の特攻作戦は、10月5日に第一航空艦隊司令長官に任命された大西瀧治郎によって始められた、と一般にはいわれているが、これには異論が多い。むしろ大西1人にその責を負わせようとして、戦後の神話ができあがったとも思える。終戦直後の昭和20年8月26日未明、大西が官舎で割腹自殺をしたためともいわれているのだ。
最初の頃は特攻隊に「志願兵」はいなかった
ところで特攻作戦は、志願兵による参加が建て前だったが、最初の頃は志願者がおらず、困り果てた大西らは、海軍兵学校出身の士官に特攻隊員になることを命令したとされている。その時に特攻隊員となったパイロットの談話が記録として残されている。
「日本もお終いだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて……。僕なら体当たりせずとも敵母艦の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させて還る自信がある」
(中略)
「僕は天皇陛下のためにとか、日本帝国のためにとかで征くんじゃない。最愛のKA(海軍隠語でKAは妻のこと)のために征くんだ。……」
(大貫恵美子『ねじ曲げられた桜』岩波書店)
このような作戦が実行されること自体、日本社会や組織が疲弊の極みに陥っていることを、現場の兵士たちは肌身で感じていたのである。
志願制だったか命令だったかは今にいたるまで論争されている。国家としてこのような作戦を行った事実を認めたくない者は、あえて志願だったと主張し、特攻隊員一人一人の殉国の思いを強調するのだ。彼らの崇高なその精神を讃えるのである。だが私の見るところ、志願という名をつけたほぼ強制、あるいは拒めないような状況づくりが行われたというのが本当の姿である。そして戦後の日本社会は、その事実を精査することなしに、ひたすら特攻隊員の精神を讃えるという誤りを犯してきた。
私はこれまで何人かの存命する特攻隊員に会ってきたが、そのなかで勇躍自ら志願したという者はほとんどいなかった。ある特攻隊員は、このように述懐している。
「特攻作戦を行う部隊へ志願するように命じられて、その通りにしただけのこと。仲間があんな形で次々に死んでいくとは思わなかった」
特攻隊員には学徒兵が多かった。