「明日一人の自由主義者がこの世から消えていきます」
大学生が大学教育を途中で打ち切られて、動員されたのは昭和18年に入ってである。10月21日に、あの有名な雨の神宮外苑競技場での学徒出陣壮行大会が行われた。
当時、大学生の数は今と比べものにならないくらい数が少なく、同年代の4パーセントほどともいわれた。その意味で彼らは日本のエリート層であったわけだが、そういった彼らが遺した手記が、戦後出版された『きけ わだつみのこえ』などに収録されている。『きけ わだつみのこえ』の最初に、上原良司という特攻隊員の遺稿が出ている。
彼は慶應義塾大学経済学部の学生で、学徒動員で海兵団に入るが、その後特攻隊になり、昭和20年5月11日に陸軍特別攻撃隊振武隊の一員として、沖縄嘉手納湾で死んだ。22歳だった。
彼は遺稿に、「私は本来自由主義者です」と書いていた。自由というのは基本的に大事だが、残念なことに今のファシズム、枢軸国家の体制は自由とはいえない、とも書いてある。そして最後に、次のように認めた。
「明日一人の自由主義者がこの世から消えていきます」
一般的には、特攻隊員は何を書いてもいいと言われているが、かといってこの国を批判したり、戦争継続に異議を申し立てることなどが許されていたわけではない。にもかかわらず上原は、自分は自由主義者であり、ファシズムには反対であることをかなり辛辣に表現している。例えばそこには、ドイツ、イタリアといった枢軸国の敗戦を喜ぶかのような表現さえあるのだ。上原は、どうやってこの遺稿を書いたのだろうか。
実は報道班員に高木俊朗という人物がいて、明日出撃する振武隊の中にいた上原を見つけ、君、ちょっと何か書いてくれと言って紙と鉛筆を渡した。上原の表情があまりにも思いつめた様子だったからという。すると彼が一晩で書いてこっそり高木に渡したのが、この遺稿なのである。だから、本音が書いてある。
当時の日本人は臣民意識そのものだったが、この遺書の中では、特攻隊員である上原は明らかに臣民の枠を超えている。光栄ある特攻隊の一員として、与えられた任務はやりますというくだりは臣民としての表面的な装いともいえるのだが、本当は自由主義者であるという自己規定は市民そのものである。彼は臣民と市民の両方を正直に遺稿の中に遺したのだ。
「今度生れる時はアメリカへ生れるぞ」
上原良司の妹は、当時女子医専の学生で、特攻に飛び立つ前の兄を東京の調布の飛行場に訪ねていった。むろん兄が特攻隊員に選ばれていることなど知らない。兄が調布飛行場から他の飛行場へ向かうとの連絡が入り、慰問に赴いたのだ。その時、兄の部隊の仲間五、六人が、上官がいない場で雑談を交わしていて、彼女はそれを聞いていたのだが、なんだか妙な雑談をするなと思ったという。そして寮に帰ってすぐにメモに書き残した。私は、上原の遺稿に青年期からふれていて、感動を覚えていた。
それゆえに上原の故郷である長野県のある町を訪れて、医師である妹にも話を聞いてきた。その時のメモも見せてもらった記憶がある。
そこには次のような会話があった。
「ああア 雨降りか。全く体を持て余すよ」
「よし、俺が新宿の夜店で叩き売ってやらあ」
「その金で映画でも見るか」
「お前の体なんか二束三文で映画も見れねえや」
「それより俺達の棺桶を売りに行こうや。陸軍省へ行ったら30万円には売れるぞ」
「30万円の棺桶か。豪勢なもんだろう」
(中略)
「ああア、だまされちゃった。特操なんて名ばかり良くてさ。今度生れる時はアメリカへ生れるぞ」
(中略)
「向うの奴ら(アメリカ軍のこと)何と思うかな」
「ホラ今日も馬鹿共が来た。こんな所までわざわざ自殺しに来るとは間抜けな奴だと笑うだろうよ」(この引用は、上原良司、中島博昭『あゝ 祖国よ 恋人よ きけ わだつみのこえ 上原良司』から、昭和出版)