戦時下の首相であり、陸相である東條英機は、「太平洋戦争に勝つ」ことと、「敗戦」という事態をどのように受け止めていたのか。日本経済新聞がスクープした、昭和20(1945)年8月10日から14日に書かれた東條の手記にはこうある。

 然(しか)るに事志と違ひ四年後の今日国際情勢は危急に立つに至りたりと雖尚(いえどもな)ほ相当の実力を保持しながら遂に其(そ)の実力を十二分に発揮するに至らず、もろくも敵の脅威に脅(おび)へ簡単に手を挙ぐるに至るが如き国政指導者及国民の無気魂なりとは夢想だもせざりし処之(これ)に基礎を置きて戦争指導に当りたる不明は開戦当時の責任者として深く其の責を感ずる処、上御一人に対し又国民に対し申訳なき限り…… (半藤一利、保阪正康、井上亮『「東京裁判」を読む』)

 日本の軍事指導者たちの戦中・戦後の態度、敗戦の理由について、作家・保阪正康さんの著書『昭和史七つの謎と七大事件 戦争、軍隊、官僚、そして日本人』(角川新書)より一部を抜粋する。

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国民が根性なしだから戦争に負けたのか

 東條英機は昭和16年12月8日の開戦の時に、この国難を国民は一致団結で乗り越え、とにかく勝利のときまで戦い続けるであろう、そういう皇国の精神を私は信じている、ということで戦争指導に当たったと自負している。だが国民は、そうではなかった。戦争末期は、政治指導者も国民もまだ力があるのに、アメリカ軍の攻撃に脅えて手を上げてしまった。「無気魂」な、つまりこんなに弱い、根性のない国民だと思わなかった。だから、そういう国民を見誤っていた自分の不明を恥じるといっているのである。裏を返せば、自分の責任とは、国民の必勝の信念が崩れることを見抜けなかった点にあるというのだ。

 これは大変な歴史感覚である。暴言と言ってもいいだろう。あるいは暴言というより、無責任もきわまれりとの言い方をしてもいいのではないか。この文書が日本経済新聞で紹介されたときには、唖然としたとの声が数多く同紙に寄せられたという。

国民に開戦を告げる東條英機 ©共同通信社

 こういう人物が開戦を決定したことになるが、3年9か月に及ぶ戦争の出発点において、大きな錯誤があったといえるのではないだろうか。

 一方、開戦の時に海軍大臣だった嶋田繁太郎は、巣鴨において東京裁判が最終段階に入ったころ(昭和23年8月13日のことだが)に、自分の正直な気持ちを書き残している。その文書も明らかにされた。

敗戦は当然の帰結だった

 大東亜戦争の失敗は実に遺憾の極であったが、我国力の不足から止むを得ない結果であり、我将来の発展上に一大教訓警告を典る一段階と観られる。本裁判に依て全事態が明瞭になった様に、昭和16年10月私が海軍大臣拝命の時には既に米国の準備は着々整備して居り、其の日本打倒決意は堅硬不動であって、其の表現は11月26日の「ハル・ノート」に明示された。

(半藤一利、保阪正康、井上亮『「東京裁判」を読む』)

 この中で嶋田は、間接的な表現ではあるが、自分たちのこの戦争は失敗であり誤りであった、間違いであった、こういう形で決着したことは、ある意味当然の帰結であったという意味のことを書いている。

 開戦の道を陸軍と海軍を代表する形で突き進んだ2人は、最後の段階ではその見解をまったく異にしていた。1人は、政治指導者の降伏に共鳴する国民の姿に怒りをもっていて、そんな国民の精神を見抜けなかったとの責任転嫁を書き残す。もう1人は、改めて冷静に縷々考えると、アメリカの罠にはめられたところはあるけれども、この戦争が結果的にこういう敗戦になったのは仕方ない、これは当然の帰結なんだと、自省にも似た書きものを残している。嶋田の文書には種々批判があるにしても、それなりにわからないでもない。

 あえてこの2人に望まれる姿勢は、国民に一切の情報を知らせずに、ひたすら自分たちの権力のもとで戦争をすすめたことへの自省であり、あるいは開戦責任者として国民に対する責任(法的、政治的、社会的、倫理的など)があることを自覚して、何らかの意思表示をすることであった。説明責任を果たすこと、それが当然の姿勢だったのである。