いざとなったら「公」より「私」
戦争に敗れるというのは、誰の責任なのか。責任をとるとはどういうことか。そのことを改めて考えてみたとき、とくに東條と鈴木を比較したときに、その歴史観や死生観に著しい違いがあることがわかる。とくに死生観についていえば東條は、本来なら自らの名で昭和16年1月に軍内に「戦陣訓」を示達したのだから、その死生観は明確になっていなければならない。
この「戦陣訓」は、一言で言えば、将兵に対して死生観を要求するものだった。
実際に、この「戦陣訓」のなかには「死生観」という項があり、そこには次のように書かれている。
死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。心身一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。
東條がとろうとした「責任」と「自決未遂」
この死生観を、東條自身はどのように受け止めていたか。A(日本)はB(アメリカ)にどれほどひどい目にあおうとも、負けを認めないのだから、主体的には決して負けないはずであった。希望的観測を並べた戦争終末に関する腹案は「勝つ」という尺度を示していたが、そこにはイギリスや中国を屈服させることができなければ、「勝つ」という状態はこないはずだった。それらの国を屈服させるまで、Aはその死を賭して戦い、そして主体的に「勝つ」状態にならなければならなかった。死生観とはそのような状態から生まれるべきものだった。
ということは、東條自身は何よりもこの死生観を自らの尺度にしなければならなかったはずだ。加えて、この「戦陣訓」は自らの名で示達しているのだから、なおのことその責任があったのだ。彼はその責任をどのようにとろうとしたか。
東條には昭和20年9月11日に、GHQ(連合国最高司令官総司令部)の責任者であるマッカーサーの名で逮捕状が出された。
その前日の九月十日まで彼は、自分は陛下にご迷惑をかけたのでその責任を取る、つまり戦争犯罪人裁判をやるのなら出廷して証言するといっていた。これは、陸相の下村定などにも約束をしていたことだった。その一方で周辺の者には、首相経験者でもある自分のプライドを傷つけられるようなことがあったら自殺するとも漏らしている。結局、プライドを傷つけられたとして、東條は拳銃で自殺を図るが、未遂に終わってしまう。
いったいGHQは、どういうことで東條のプライドを傷つけたのだろうか。
この日はGHQが逮捕に来るというので、朝から外国記者団の車が東條邸の前に並んでいた。そして午後4時、MPが逮捕に来たのだが、そのMPは朝鮮系のアメリカ人だった。これはGHQの意図的な行為であるが、東條から見たら日本人にしか見えなかった。そのMPが、逮捕状を英語と日本語で読み上げた。その後に、東條は自決(未遂)した。
戦時下の一時期は国民の英雄だった東條が、日本人に逮捕される。そのことに彼はプライドを傷つけられたのだ。
この事実には、実は重要な問題が隠されている。東條の論理の破綻である。もっと詳しくいえば、戦争指導者の本質が暴かれていると言ってもよい。それはどういう意味か。
東條はかねがね、天皇のために申し訳ない、率先してその責任を果たす、私が戦争を始めたので、陛下には責任はない、ということを言っていた。それが軍人として、忠臣としての自分の役目であるというのである。これは、「公」としての東條の自覚である。