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「聖戦完遂」を叫んだ東條英機……敗戦後に見せた「躊躇なく『私』を選ぶ精神性」

戦後75年 『昭和史七つの謎と七大事件』より #4

2020/08/07

genre : ライフ, 歴史, 読書

note

躊躇なく「私」を選ぶ精神性

 その一方で、プライドを傷つけられたら自分は自殺するとも言っている。こちらは「私」の意見である。

 戦時下ではその「公」と「私」が、秤のようにバランスを保っていた。もっとも国民に対しては、「私」を認めていない。戦陣訓を見てもわかる通りだ。「公」に生きろと言っていたではないか。ところが、東條自身は「公」と「私」が衝突したとき、ためらいもなく「私」を選んでいる。つまり自殺を図るとは、そのようなことであった。

 平素きれい事を言っているが、最後は「公」よりも「私」を選ぶ。これは東條に限らず、戦争を担った指導者の意識の中によく見られたことだ。

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 ここからどのような構図がひきだせるか。きれい事を言う人ほど、筋の通らない行動をとるということであろう。人間は土壇場でその本質が問われるということだ。東條は「畢竟戦争とは精神力の差だ」と言い、「負けたと思ったときが負け」と言ったが、その論理を自らに当てはめたときに、まったく矛盾した行為をとっていたことにならないか。戦争の意味が、あえて言えば戦争に「勝つ」の意味が混乱していたことを裏付けたと言ってもいいだろう。

 一方で、東條が敗戦後の状況に怯えていたのも事実だ。つまり「私」にとらわれていたのである。

国民の「報復」に怯えていた東條

 イタリアは1943年9月8日に無条件降伏をして、パルチザンに捕らえられた独裁者ムッソリーニは1945年4月28日、愛人のクラレッタ・ペタッチとともに銃殺され、その死体はミラノのロレート広場に逆さ吊りにされた。

 ムッソリーニの処刑のあとにヒトラーもまたベルリンの首相官邸までソ連軍に攻め込まれ、自ら命を絶った。その際にムッソリーニのように晒し者になりたくないので、遺体を焼却するよう言い残したと言われているほどだ。

絞首刑の判決を聞くA級戦犯の東條英機 ©共同通信社 

 

 逆さ吊りにされたムッソリーニの写真は、雑誌「ライフ」に掲載されて世界中に流された。日本でも九月に入ってから意図的に、その写真が報道されたのだが、東條はその写真を見て、異様なほど脅えていたという。家族を全員別の場所に移し、東條姓を名乗らなくてもすむように娘たちの戸籍を変えようとした。国民からの批判、あるいは復讐にも似た行為を恐れていたのだろう。天皇のために、つまり「公」のために自らの生き方を貫くというのではなく、ひたすら自らの戦時下の国民に向けての発言のはね返りや、さらには戦陣訓に怯えていたことになる。

 私はあえて東條に厳しい見方をとる側にいるのだが、それは東條のようなタイプによって重要な国策が担われてはならない、と固く信じているからなのである。

 史実を精密に分析する時、大切なのはそこから何を学ぶかということである。学ぶ気がなければ、それは単なる聞き心地のいい話に終始してしまう。あるいは容易に謀略史観にはまってしまい、フリーメイソンや共産主義者の陰謀にして片づけようとしてしまう。そして歴史を生半可で理解し、わかったような言い方をする。そこには真面目に歴史に向かう姿勢はない。