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2020/08/07

genre : ライフ, 歴史, 読書

「海軍の馬鹿ヤロー!」といって死んだ

 その美濃部のメモに、特攻隊員たちの無線を受けている無線技師からの報告内容が書かれているのだが、そこに次のようにあった。

「今日の無線の中に、『海軍の馬鹿ヤロー!』といって死んだ特攻隊がいる。絶対極秘。いかなることがあっても海軍に漏らしてはいけない。」

 これは何を意味するのだろうか。特攻隊員の中には、アメリカ軍の空母に体当たりしていくときに呪いの言を吐いていった者が少なくないということだ。このような事実は、一般に明らかにされていない。しかし、もし明らかにされたなら、そこには鋭く軍事指導者や参謀を批判している内容が少なくないことがうかがえるのだ。

 特攻隊員の無線の記録は、必ず資料があるはずなのだが、今に至るも一切公開されていない。あるいは昭和20年8月15日の段階で燃やしてしまったのかもしれない。

 私は当時の無線技師の人たちから教えられたのだが、彼らの言では、誰もが「天皇陛下万歳」と叫んで死んだわけではない。泣いていた人もいたし、「おかあさん」と叫び続けた者もいるといい、悲しい話が数多くあると証言していた。

 それが本当の姿なのであろう。それを正直に伝える、それこそが史実を伝えるということなのだ。あえて言えば、それを太平洋戦争を見つめる新しい視点に据えなければいけないということだ。

ある整備兵の告白

 さらに、10数年前のことだが、千葉で講演した時の話を紹介したい。

 講演が終わって、私が控え室に戻ったら、娘を連れた80代とおぼしき高齢者が、どうしてもあなたに話があるので、今日は病院にお願いして外出届けを出し、娘とともに来たと言った。そこで別室に行って二人きりになると、その人は、私はもうこの後そんなに長く生きないだろう、だから、これまで誰にも言ったことがないことをお話しするので、記憶にとどめておいてほしい、と話を切り出した。

 その人は学徒兵で、戦時下では特攻隊員の乗る飛行機の整備兵をやっていたそうだ。特攻隊の飛行機が一機飛び立つには、3、4人の整備兵が必要で、毎日飛行機の整備をしていた。当然同じ学徒兵だったこともあり、親しく会話を交わすことになった。初めは他愛ない話だったが、次第にお互いに心の中を明かすようにもなった。ある時彼が整備していた飛行機の特攻隊員に出撃命令が出された。この特攻隊員は特攻機に乗る直前に失禁して、そして失神状態になってしまったという。別にこれは珍しい話ではなくて、そういう話が数多くあったそうだ。その特攻隊員は生真面目でおとなしい男だったのだが、整備兵たちは彼の顔を叩いて目を覚まさせて、むりやり特攻機に乗せたという。すると特攻機は、反射的に飛び立ったそうだが、その隊員はとても沖縄まで飛んでいく状況ではなかったという。

写真はイメージ ©iStock.com

「途中で、鹿児島湾のとこらへんで不時着したと思いますよ。たぶん彼は、この理不尽な命令に戸惑いながら、最後は自殺同然に海に突っ込んでいったと思います。私たちが彼を殺したようなものです。そのことを私は死ぬまで伏せておこうと思ったのですが、あまりにも彼に申し訳ない思いがするし、私も嫌がる彼を乗せて送り出したとの罪の意識を持って生きてきました」

 その高齢者は述懐し、生きている間に話しておきたかったと言うのであった。

 その後、私が記録を調べてみると、この特攻隊員が沖縄まで飛んでいったとの記録はなかった。

 頬を叩いて特攻機に乗せたこと、それはこの元整備兵が抱え込んでいる一生の心の傷だったのだ。皇軍の勇猛な兵士とよく言われるが、じつはそうではない、ということを知る必要があるエピソードではないか。