「こんな所までわざわざ自殺しに来るとは間抜けな奴だと笑うだろうよ」という自嘲
彼らはいつ出撃するかわからない。この時も雨が降っていて出撃地の知覧に向かう予定が延びていたのである。そして、特操なんかに志願しなきゃよかったと言っている。「特操」というのは、「特別操縦士官」のことで、特攻隊員を意味する。そのことを詳しく知らなかったとの告白もされている。「こんな所までわざわざ自殺しに来るとは間抜けな奴だと笑うだろうよ」というのは、アメリカ兵からはこのように見られているのだろうとの自嘲である。彼らは自他を客観的に見つめる目をもっていた。それを、この言は物語っている。私は特攻隊員がこのような話を交わしていたことを、もっと具体的に今の時代の者は知っておくべきではないかと思う。
実際に特攻隊が出撃する前に、実はこういった会話を交わしていることは、当時の文献、資料などでは一切語られていない。
上原の妹は、この会話を奇妙に思ってメモしたが、戦後もしばらくは人には見せないでいた。というのも、特攻隊はお国のために喜んで死んだことになっているのに、実はこんな会話を交わしていたことが知られたら大変なことになる、と恐れたからだ。だから公表されたのは、戦後30年近くを経てからである。
最後の瞬間の特攻隊員の声を基地で聞いていた
あまり知られていない事実だが、特攻隊員の自爆機が敵に突っ込んでいく時、ときに基地ではその無線をオンにしていたという。
これは何々機、誰某、これから突っ込みますということを確認するわけで、基地ではその最後の瞬間の特攻隊員の声を大体は聞いていたのだ。そして、その声で戦果を測っていた節もあった。
戦時下で、芙蓉部隊という航空部隊の隊長だった美濃部正という指揮官が、戦後40年近くたって、戦時下の日記やメモなどを含めて私家版の回想録をだしている。もっとも刊行されたときは病死していたのだが、そのメモによって私は意外な事実を知らされた。美濃部は海軍の指揮官として、特攻作戦に一貫して反対した。
「私には、100パーセント死ぬ命令をだすことはできない」
これがその理由だった。
私は何度か美濃部を取材していて、教えられることが多々あった。手紙の交換も続けたが、そのような当たり前の感覚を持っている海軍軍人がいることに、密かに安堵感を覚えた。