山本五十六は自殺か?
さて、話をもう一度山本に戻すが、アメリカによる初の本土空襲のとき、空母の艦載機からの爆撃を想定していた山本五十六もさすがに強いショックを受けた。以前より計画していた、アメリカの空母を撃沈してハワイ攻略を進め、講和に持ち込むというミッドウェー作戦に改めてこだわった。昭和17年6月に実際に海戦を行うが、情報収集に長じるアメリカ軍の待ち伏せ攻撃を受け、海軍は壊滅的な打撃を受ける。海軍軍令部はこの敗戦を、国民はもとより、天皇にも十分伝えず、そして陸軍にも連絡しなかったのである。
ミッドウェーの敗戦に山本は責任をとっている。軍人としては、致命的な敗北の批判を受け入れなければならない。その後山本は、連合艦隊司令長官として、ラバウルにあったいくつかの海戦を指揮したが、昭和18年4月に「い号作戦」実施のために前線の視察を希望した。その前線はアメリカ軍の対戦闘機の行動半径内であることもわかっていた。山本は視察中止を求める参謀の声に抗してその視察に赴いた。
なぜ山本は前線の視察に赴いたのか。
本来なら最高司令官は、そのような危険の多い視察は行わないことが普通だった。い号作戦は、ラバウル周辺の制空権、制海権を確保する意味をもっていた。それが戦線の延びきった日本の避けられない戦略だった。山本は自ら「一年は暴れてみせる」と言ったが、その一年が過ぎて、日本軍は戦時体制を整えたアメリカ軍に抗するために占領地域を絞り込む、あるいは縮小の方向へと舵とりをしようとしていたのだ。
可愛い部下に「さらば」を告げる
その時に延びきった戦地にいる兵士たちは、切り捨てのような運命をむかえかねない。その兵士たちに何らかのメッセージを伝えなければならない。山本の前線視察には、そのような意味があったと思われる。
半藤一利は前述の書(『山本五十六』)のなかで、次のような見方を示す。
真の山本の心は、裂けんばかりに悲痛なものであったと思われる。この作戦が終了すれば、自分の権限と責任において一気に後方に退いて、戦線をぐんとしぼる覚悟を秘めている。そのために、ソロモン諸島に展開し奮戦している第一線基地を敵中に捨て石にして残し、見殺しにすることも辞せぬのである。
“情の人”山本が、その情を殺し、一軍の将として部下にすべて死ねと命ずるにひとしい。それをあえて断行するのである。
4月18日に予定されている前線巡視は、い号作戦終了後の激励でも慰労でもない。かれにとっては、それは可愛い部下に永遠の別れを告げにいくことなのである。心を鬼にして「さらば」の一言を告げにいく──だれが反対しようと、止めようと、そうすることがおのれの義務と、山本は深く心に決していた。