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国民にも隠された「英雄」の死

 ここに山本の本音が明かされているように、私も思う。部下に電報一本で命令を伝えるのではなく、自ら足を運んで別れを告げる。それが山本の真意だった。

 そして山本五十六は、ドゥリットル隊の本土空襲からちょうど1年後の昭和18年4月18日、ブーゲンビルの上空で撃墜死する。その死は、1か月以上も国民に伏せられた。戦後になって、山本の死は戦死ではなく、むしろ自殺だったという説も囁かれている。

写真はイメージ ©iStock.com

 それは、なぜか。

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 前述した通り山本五十六は、おそらく一番アメリカのことをよく知っていた日本の軍人だった。それが、「1年なら暴れてみせましょう」という発言になったわけだが、真珠湾攻撃を成功させた山本の国民的人気は非常に高いものがあり、帝都が爆撃を受けても、彼は希望の星だった。そのような人間が、そして連合艦隊司令長官という要職にある人間が、なぜわざわざ危険な前線のブーゲンビルに視察に行って、兵士たちを励ますなどということをやったのか。また、周囲はそれを止めたのにもかかわらず、山本は強硬に視察に行くことを主張して、あっけなく死んでいった。

兵士を人間として扱った山本五十六

 それゆえに、山本五十六の死は自殺だという説が出るのだろう。

 同時に、なぜ軍事指導者たちはその死を隠したのか。むろん国民の士気が落ちないようにとの配慮もあるだろうが、真の理由は軍事指導者たちが激戦地の兵士に気軽に命令をだし、時には兵士は虫けらのように扱ったにもかかわらず、山本は決してそのような扱いをしなかった、そのことを国民に知らせたくなかったのかもしれない。いや、私にはそうも思えてくる。

 山本が今なお国民的人気があるのはいくつかの理由がすぐに挙げられるが、もっとも大きいのは兵士を人間として扱い、自らもまたそのために兵士への礼節を尽くしたということであろう。それが現代の者にも受け入れられているのだ。

 私たちはその視点で改めて戦争の責任者、戦場の責任者が兵士をどのように見つめていたかを、太平洋戦争下の戦況ごとに整理してみることが必要ではないか。