文春オンライン

東浩紀「コロナ禍で『リベラル』な知識人は『監視社会』を肯定してしまった」

東浩紀インタビュー #1

2020/07/25
note

インターネットで「本音」は語られない

――「#検察庁法改正案に抗議します」で盛り上がっていたかと思うと、「#大村知事リコールを支持します」も登場しました。あいちトリエンナーレ2019を受けての動きです。今や、右も左も動員合戦になっているのかなとも感じます。

 もともとネットは、市民一人ひとりの自発的な意思が結集する場所だと考えられていました。けれどもSNSによって変わってしまった。今ではむしろマスメディアにコントロールされた、芸能人が力をもつだけの世界になっている。少なくとも日本では、インターネットはオルタナティブメディアとして機能していない。ワイドショーとネットが相互に同じ話題を取り上げて盛り上がり、何百万人もフォロワーがいる人たちだけが影響力をもつ世界です。オモテではいえない「本音」や「真実」が語られる場所ではもはやまったくないと思います。

 

 ただ、そういう幻想だけは残っている。だからネットの動きは過大評価されている。でもそういう幻想も近い将来消えていくでしょう。ハッシュタグで政治が動いたのは、ワイドショーで政治が動いたのとなにも変わらないと思います。

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1万人~10万人は、ちゃんとものを考えている

――東さんは、哲学者の梅原猛さんをしのぶ追悼文で、「事実の集積は歴史にならない。ひとは過去を物語に変えてはじめて未来に進める。そしてその物語の創出は哲学者の責務である」「哲学者は自由でいい。大胆でいい」と書いています(「哲学者は自由でいい」『テーマパーク化する地球』収載)。今のSNS社会では、大胆な発言ができる評論家や哲学者は、専門家とされる人たちからも非難を浴びやすいように思います。たとえば、政治や社会について大まかなことを語ると、一斉にチェックされ、「この部分が違う」といってアラ探しをされ、場合によっては人格攻撃に発展したりします。

 

 万人が納得する誰も傷つけない言葉というのは存在しません。存在したとしても時候の挨拶のようなもので、新しい情報はありません。新しいことを主張し発言するということは、どうしても、ある集団の人たちをギョッとさせ、ある集団の人たちには暴力的に響く可能性をもつ。それをどのくらい許容するかという問題です。出版にしても初期のネットにしても、結局のところは、読者のアクセスが限られていたので大胆な表現が可能だった。いまのSNSは極端な話、小学生でも読むかもしれない。これでは何も言えなくなるのは当然です。裏返せば、この問題の解決は非常にシンプルで、大人が読むメディアを作ることですね。それしかないと思います。

――それは、「専門家がインターネットですばやくファクトチェックすればいい」などとは、まったく違う考え方ですね。自分たちの発信を受け取ってくれる拠り所を別に作るという……。

 数字は個人的な感覚によるものでしかないですが、どんな時代でも1万人から10万人のあいだくらいは、ちゃんとものを考えている人がいる。まともなメディアはその人たち向けに作るしかない。

 これはメンバーの質というよりも、むしろスケールの問題かもしれません。ぼくたちが伝統的に「公共的」と呼んできたような感覚は、そもそも1万から10万くらいのスケールでしか機能しないのではないか。むろん近代国家の人口はそれよりもはるかに大きいですが、公共性とは近代では出版や放送のようなマスメディアがつくるものなので、「情報の送り手」の規模は人口が1億人になってもやはり変わっていなかった。ところがいまは、そういう10万人規模の近代マスメディアの上に、スケールがまったく違う数億人規模のポストモダン・ネットメディアが乗っかるかたちになっている。そして、そちらのほうが資本主義的にはお金も動くし、民主主義的には票も動く。だからほんとうの公共はこっちだろうということになってしまった。