20代前半に「批評空間」でデビュー、2020年でゲンロン創業10年の節目を迎えた批評家の東浩紀さんは、大学院にいた頃、中小企業を経営するとは想像もしていなかったものの、「ぼくの場合は性に合っていたんだと思います」と話す。大学や既存のメディアを足場にするのではなく、創業した会社を拠点に発信する「知識人」の形を見つけるまでの歩みとは。聞き手は、近現代史研究者の辻田真佐憲さんです。(全2回の2回目/#1から続く)
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インテリが話す言葉を聞いても感心しない
――東さんは、少数のエリートと大多数をわけるのではなく、中間層のサラリーマン出身のような人たちのことを考えなければならないとずっとおっしゃっています。それは東さんご自身の出自とも関係しているんでしょうか。
東 それは大きく関係しています。ぼくは父親も母親も別に大学人ではないし、親戚にもいわゆる知識人はいません。戦後社会の中から出てきたごく普通の職業人ばかりです。左翼もいなかったので学生運動とも縁がなかった。一般的なサラリーマンの家で育ちました。
――出自と思想は、どこまで関係していると思いますか?
東 ひとによると思いますが、ぼくの場合、出自が関係しているのは、知識や思想というよりも身体的な感覚ではないかと思います。たとえばぼくは「話がわかりやすい」とよく言われますが、その理由はそもそもまわりに学者がいなかったことにある。ぼく自身、インテリが話す言葉を聞いても感心しない。「うちの親が聞いたらちんぷんかんぷんだな。彼らすら説得できないな」と思ってしまう。そういう意味で出自の影響を受けています。
――母方のおじいさまは、赤坂で内装業を営まれていたそうですね。その影響は大きく、子どものころは「祖父の世界しか大人の世界を知らなかった」とも書かれています(「ゲンロンと祖父」『ゆるく考える』収載)。
東 これはたまたまですが、いまのゲンロンの会社の規模は、直感的にうちのじいさんが赤坂でやっていた内装業とほぼ同じなんじゃないかと思います。こういう規模の中小企業をマネジメントし、色々な人たちと付き合っていくのが、ぼくの性に合っていたんでしょうね。
――ちょっと変わった質問になるかもしれませんけれども、「ゲンロンと祖父」を読んでいると、おじいさまには従軍経験があって、大陸で飛行機にも乗ったと。将校か何かをされていたんですか?
東 いや、一兵卒だと思います。どこかで彼が乗った飛行機のエンジンが止まったかなにかで落ちそうになり、荷物をどんどん落としていくんだけど、それでは足りないというので今度は下っ端が次から次へパラシュートで飛び降り、次はおれだという時奇跡のようにエンジンが動き出し復活したというのが、じいさんの好きな話でした。赤坂の一ツ木通りに近衛(歩兵)第3連隊があったんですが、じいさんの家はあのすぐ裏でした。
――じゃあTBSの裏手ですね。
東 そう。ぼくが子どもの頃、昭和50年代は近衛第3連隊の跡地ってまだ空き地だったんです。家の裏手からドーンと広い空き地があって、TBSの電波塔が見えた。ぼくはだまされて、それが東京タワーだと思い込んでいた。