思想の中心はフランス語圏から英語圏に
――東さんにポストモダンのイメージを強く持つ人が多いかもしれませんが、これは93年に「批評空間」でデビューしたことが大きいでしょうか。
東 そうでしょうね。ただ、ぼくは出自的にはポストモダン系ということになるんだろうけど、そもそも関心のベースはかなり違うところにあるんです。大学院で表象文化論に行って、浅田彰さんや柄谷行人さんの雑誌でデビューしたのはたしかだけど、そもそも入学したのは東大文一です。教養学部時代(3・4年生時代)も科学史・科学哲学研究室だったんですね。文三に入学して、現代思想を目指す哲学青年というわけではまったくなかった。進振り(3・4年生への進学コースの選択)でも、科学史・科学哲学か国際政治学かを迷ったくらいです。
――国際政治学に行っていた可能性も。
東 ありました。そもそも文一のときは、佐藤誠三郎のゼミに入って『フォーリン・アフェアーズ』を英語で読んだりしてたんです。「英語」と「社会科学」の圧力というのは当時からすごくて、ぼくは90年代に大学院にいたんですが、それは英語圏が人文科学をすごい勢いで飲み込んでいった時期でもありました。たとえばミシェル・フーコーは、80年代までの日本ではどちらかというと文学研究や美術研究よりの歴史家だと思われていた。つまり『言葉と物』とか『これはパイプではない』が有名だった。ところが80年代後半くらいから「生権力」とか「統治性」といったフーコーの権力論が注目されるようになり、1991年に『フーコー・エフェクト』という本がアメリカで出版された。それがきっかけになって、翌92年に日本でも「現代思想」で特集「フーコーのアメリカ」が出た。そこらあたりから一気にフーコー理解が変わったんです。そしてそれは同時に、思想の中心がフランス語圏から英語圏に変わる時代でもあった。
――フーコーは今ではすっかり「権力論の人」ですから、意外ですね。
東 ぼくが専門としていたジャック・デリダもそうでした。デリダはそもそも英語圏で講演を活発に行うようになり、90年代に入ると『法の力』や『マルクスの亡霊たち』といった主要なテキストがまず英語で出版されるようになる。ただぼく自身は、みなが英語だというのを、学問が単純化し画一化していくプロセスだと冷ややかに見ていました。とはいえ、これはぼくがそもそもアメリカのコロンビア大学の大学院入学に失敗したから言っているのかもしれない。もしあの時留学に成功していたら、かなり違った人生になったでしょう。いずれにせよ、当時はすでに「これから知識人として生きていくためには英語でやるしかない」という圧はかなり大きなものとしてあって、だからぼくも留学を真剣に考えたわけです。
アメリカルートがなくなり、『動物化するポストモダン』へ
――途中でアメリカルートみたいなものがなくなったと。
東 そういうことですね。ただ、ぼくはかなり本気で準備を進めていたんですよ。英語の家庭教師も探して……というか、柄谷さんのもとに来ていた泉鏡花を専門にしている研究者の方に日本語を教えて、代わりに英語を教わるということをやっていました。今から思えばかなりディープな授業ですね(笑)。
それを1~2年ほどやっていました。今でも少しだけ英語を話せるのはその時のおかげです。またGREという大学院入学統一試験やTOEFLも受験していました。ただ、ばかげた話なんですけど、そのころ日本ではオウム真理教事件が起きたり、「エヴァンゲリオン」が流行し始めたりしていて、「日本のサブカルのほうが熱いのかな」といった迷いもあったんですよね。そうしたら落第通知が来たので、まあ天の声かなと……。
――ああ、そういうふうに『動物化するポストモダン』につながっていくんですか。
東 そうですね。そしてめぐりめぐってこうなった。その頃はまさか将来、中小企業の経営をしているとは想像もしていなかったですけど。
――ゲンロンの刊行物では、キリル文字やタイ文字がそのまま使われていたりしますね。あえてラテン・アルファベットに直したりせず。校正がたいへんだと思うのですが、そういうこだわりは、90年代からの英語圏の隆盛を経験したことと関係していると思いますか。
東 そうかもしれません。英語に翻訳する過程で、色々なものが失われるという感覚はすごくある。たとえば『隠喩としての建築』は、柄谷さんの本では初期に英語になった本です。MIT Pressから『Architecture as Metaphor』というタイトルで出版されているんだけど、学生時代に手に取ったとき、英語だと柄谷さんの議論はこれほど薄っぺらく見えるものかと愕然としました。段落が短くて注がない。英語ではそれだけで、エッセイにしか見えず、学問的価値がない印象になってしまう。日本語での「批評」の良さがまったく消えてしまうんです。変な話ですけど。
だから最近はアジアについて考えていますね。日本というよりもアジアです。アジアでは、知識人と大衆の分割が欧米とは異なっている。たとえば、国家の庇護のもとに大学という特別な空間があり、その中で知識人が議論して公共をつくるというのが近代ヨーロッパの「知のモデル」だったとすると、アジアではそもそもそういう前提がない。日本の「批評」はそのなかでつくられたものなので、欧米には馴染まない。海外でぼくの熱心な読者がいるのも、欧米ではなく韓国や中国です。