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――ゲンロンのお客さんにはIT系が多いんですね。GLOCOM(国際大学グローバル・コミュニケーション・センター)で情報社会論などを論じられていた時代の読者が、ずっと継続してついてきているということなんでしょうか。

 そうだと思いますね。ぼくのお客さんにはいくつかのルートがあって、いわゆるポストモダン系・現代思想系の人は、ぼくの感覚では2割くらいだと思います。そしてけっこうなボリュームゾーンとしてオタク系がいて、オタク系とIT系は重なっているのであわせて4割くらいかな。そして残り4割を、文学から入る人、『朝生』から来た人、社会思想に関心のある人などが分け合っている感じ。

アジアで知識人として生きるとは

――最後に、今後の展望といいますか、追求していきたいテーマや行きたい場所があれば教えてください。

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 取材先として今どこに、というのはまだ思いついていません。仕事にならないことでいえば、暇があったら、諸子百家、東洋思想誕生の地をめぐる旅に行きたいと思っています。孔子廟とか。

 さきほどもいいましたが、ぼくは「知識人」のモデルに興味があるんです。ヨーロッパ哲学を学んだので、ソクラテスのことはそれなりに分かる。でもアジアにおける知識人のモデルは、ぼく自身アジア人だというのに、いまひとつわかっていない。だからいつかは孔子について考えないといけない。

 

――諸子百家だと政治とのつながりが強いですよね。自分の思想を採用してくれと訴えに行ったり。

 そうだと思います。ソクラテスだって政治に無関係じゃないですが、ただやはり脱公共的・脱ポリス的ではある。ソクラテス的な哲学者のありかた、のちにそこにキリストも重なってくるわけですが、ヨーロッパでは哲学的な知というのは原理的に公共の外にあるものだと考えられている。わかりやすくいえば、キリストも殺されているし、ソクラテスも殺されているわけです。でも、孔子は殺されていないどころか、子孫はいまでも10万人いるといわれ、墓場の森は世界遺産なわけじゃないですか。両者は全然違うタイプの哲学のかたちですよね。

――考えてみれば、ソクラテスにしても、プラトンを読んでいると立派な人だったということになっていますけれども、アリストパネスの『雲』を読むと新興宗教の教祖みたいに描かれていたりします。

 ソクラテスは基本的に、カルトで危険だからといって殺されたひとです。

――それにしても、最後に大胆な東西比較のお話をいただきました。これこそ、自由な批評家の本領発揮だとあらためて思います。

 知識人のモデルというのは、権力がどう機能するかということとも関係している。アジアにおいては、知と権力の結びつき方がヨーロッパやアメリカと異なっている。でもそれがどう違うのかは分析されていないし、住んでいるぼくたち自身も自覚していない。だから日本でも、リベラルの知識人はずっと空回りして苛立ち続けている。「アジアで知識人として生きることとはいったいどういうことだろうか」。それがゆくゆくはぼくのテーマになっていくのかなと思っています。

 

写真=末永裕樹/文藝春秋

あずま・ひろき/1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。1993年に批評家としてデビュー、東京工業大学特任教授、早稲田大学教授など歴任のうえ現職。著書に『動物化するポストモダン』『一般意志2.0』『ゲンロン0 観光客の哲学』『テーマパーク化する地球』ほか多数。近著に『哲学の誤配』『新対話篇』がある。