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東浩紀「コロナ禍で『リベラル』な知識人は『監視社会』を肯定してしまった」

東浩紀インタビュー #1

2020/07/25
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「社会活動の多くはオンラインで代替できる」は幻想

――東さんは、コロナ時代の「社会活動の多くはオンラインで代替できる」という考え方も幻想だと指摘されていますよね。社会はリアルなインフラがないと回らないし、身体的接触を避ければ避けるほど、接触を担わざるをえない人の負担は増えると。

 とはいえ、そういう幻想はまだまだ強い。そんな中で、「観光」はこれまでになく政治的・思想的な意味をもちそうです。いうまでもなく、東哲学において、観光や旅、観光客は重要なキーワードの一つでした。ゲンロンという会社としても、チェルノブイリ・ツアーに取り組んでこられました。

 

 3年前に『観光客の哲学』という本を書いた時には、グローバリズムの進展の中で観光客というものが必然的に発生し、それがある種、国家と国家の対立関係への安全弁として機能するということを伝えようとしました。ところが、コロナでその安全弁が機能しなくなってしまった。いまや観光客というのはほとんどテロリストのような扱いで、いかにして入国を阻止するかが問題になっている。

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 行くはずのない場所に行き、出会うはずのないひとに出会い、考えるはずのないことを考えること。その「誤配」こそが観光の本質だということで、ぼくとしてはある意味ではお気楽なものとして提示したつもりだったんですが、いまや観光客の権利や観光客の哲学的な意味が急速にアクチュアルになっている。新しい課題が出てきた感じですね。

 

「リベラル」が監視社会を肯定してしまった

――今、お気楽なという言葉がありましたけれども、ラフなあそびの要素は豊かさでもあったと思うんです。コロナの非常時でそういったものが許されない雰囲気が一層広がりました。ポリコレもより厳しく問われるようになり、「今、どの価値観が正しいのか」「今、何が社会の役に立つのか」という話が優先される。コロナを長い時間軸で振り返る時、何がポイントになっていくと思われますか?

 コロナで、今まで対立だと思われていた様々な軸が、実は本当の対立ではなかったことが明らかになりました。たとえばIT社会の行方。一方では欧米型の人権重視の情報社会、他方で中国型の監視重視の情報社会という対立があるということになっていましたが、フタを開けてみれば、感染症対策のため監視テクノロジーをどんどん使いましょうという点ではあまり変わらなかった。

 また今回、思想的に「リベラル」と呼ばれる知識人が、国内でも国外でも監視社会を積極的に肯定してしまったことも覚えておくべきでしょう。都市封鎖や外出自粛をめぐる議論のなかで、「保守とリベラル」、「体制と反体制」、「監視と人権」といった従来の対立軸がかなり仕切り直しになったように思います。そのインパクトは、数年たって振り返った時に初めて分かってくるのではないでしょうか。

写真=末永裕樹/文藝春秋

あずま・ひろき/1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。1993年に批評家としてデビュー、東京工業大学特任教授、早稲田大学教授など歴任のうえ現職。著書に『動物化するポストモダン』『一般意志2.0』『ゲンロン0 観光客の哲学』『テーマパーク化する地球』ほか多数。近著に『哲学の誤配』『新対話篇』がある。

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