『月の客』(山下澄人 著)集英社

 口がきけず、押入れの下の段で帳面にカタカナを書き連ねる母。ほら穴でいぬと暮らし、学校にも行かず、見世物小屋で人を集める浮浪少年トシ。酔った母親に突き飛ばされた足をひきずり、誰とでも寝てしまう豚のように太った少女サナ。社会の淵で生きる彼らにとって、市井の言葉はあまりにも役立たない。言葉によらず考え、言葉によらず伝え、言葉によらず行動する。だから、読んでいると不思議な感覚に陥る。まるで、言葉でないものによって書かれたかのような小説なのだ。

 もちろんそれは、素材となる言葉を綿密に練ったからこそ生み出された効果である。使われている言葉は平易だ。しかし描写はぶつぶつと途切れ、かと思えば多弁になり、そうこうするうちに地震が起きていて、気づいたときには主人公が死んでいる。オビの惹句が度肝を抜く。「『通読』の呪いを解く書」。「どこから読んでもかまわない」。通読が無用なのは、本作が個々の登場人物や出来事に対する感情移入とは違う次元で書かれているからだろう。すべてが当たり前のように淡々と起こる。

 この物語が立つのは、神話のような雄弁の高みではない。むしろ、人物と人物が、生者と死者が、人間と動物が、互いに混ざり合って形を失っていく、反響音のうなる洞窟の中のような世界だ。そう、サナが警備員として働いていた水族館にこだまする、塊となった歓声のように。「ひとつひとつに耳をすませば、それぞれ何かしらコトバを発していたのだろうが、重なると、わーわーとしか、きゃーきゃーとしか聞こえない、しかし実際は、わーわーとも、きゃーきゃーともいっていない」。

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 それは、物語を前に進めることが、同時に、誰かの曖昧な記憶を遡ることだからなのかもしれない。肝心なところが抜けていたり、時間の前後を混同していたり、ないものが作り出されたり。記憶とは、本人のあずかり知らぬところで発酵していくものだ。「これは誰の話」と物語は繰り返し問う。思い出すうちに、自分が自分であるというその輪郭さえゆらいでいってしまうのだ。「どれだけの言葉をこの口から出して、どれだけの言葉をこの耳に入れたのかわたし、覚えてないねん/でもね、時々、ほんまに時々、あれ? 今思い浮かべたのは何やろて思う時あんねん」。

 終盤、公園のベンチに、死者となったトシと生者のサナが並んで座っている。声なき声で語り合う二人。空に浮かぶ大きな月は、地球上にこだまするうなりに、静かに耳を傾けているかのようだ。救いはない。でも、諦めのなかに不思議な爽快感がある。私たちが言葉によって分けていたものが、波打ち際に書かれた線のように、繰り返し擦れて消されていく。世界は言葉より冷たいが、言葉よりも広い。そんな最果ての絶景を見せてくれる小説である。

やましたすみと/1966年、兵庫県生まれ。96年より劇団FICTION主宰。2012年『緑のさる』で野間文芸新人賞、17年「しんせかい」で芥川賞。『ギッちょん』『小鳥、来る』など著書多数。


いとうあさ/1979年生まれ。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。『記憶する体』など。訳書『没入と演劇性』近日発売。

月の客

山下 澄人

集英社

2020年6月5日 発売