来る七月二十日、拙著の最新刊『日本の戦争映画』(文春新書)が発売になる。
これは、戦後の日本映画が戦争をいかに描いてきたのか――、その変遷を作り手たちが作品に込めたメッセージと共に検証した一冊だ。それに合わせて、この七月と八月は戦争映画を特集していきたい。
今回取り上げるのは『ひめゆりの塔』。太平洋戦争末期に米軍との間で繰り広げられた沖縄戦の模様が、看護要員として従軍することになった現地の女学生たちの姿を通して描かれた作品だ。
その多くが命を落としてしまった彼女たちは沖縄戦の悲劇の象徴でもあり、これまで四回も映画化されてきた。本作は一九五三年の第一作。今井正監督が撮っている。
物語の序盤は、両軍が激戦を展開する中での野戦病院で懸命に負傷兵を看護する女学生たちの姿が描かれていく。
画面のいたる所に傷を負って横たわる兵たちが映し出され、その苦悶と絶望の表情が何重ものうめき声とともに突き刺さってくる。二段ベッドでは、上のベッドの兵が垂れ流した小便を下のベッドの兵が浴びる。あまりの喉の渇きのため、飲んではいけない汚水を口にして、死んでいく兵の姿も――。
そして、容赦なく降り注ぐ艦砲射撃や機銃掃射の爆撃や銃撃。そのため、女学生たちは水を川や井戸に汲みに行くだけで、その行きに帰りに倒れていくことに。今井正はその死を劇的に盛り上げることはせず、あっけなく乾いたタッチで描く。その容赦なさが、残酷さを際立たせていた。
しかも、それは地獄絵図のほんの入り口に過ぎない。米軍の猛攻により日本軍は壊滅。組織として体を成さなくなる。そして巻き込まれた彼女たちは無防備のまま逃げ惑いながら、米軍により殺されていった。その死もまた、ドラマチックには描かれない。無残な死が、ラストカットに至るまでひたすら積み重なっていく。
ただ、それではあまりに救いがないため、今井正はいくつか息をつける描写を入れている。途中で立ち寄る農村でのつかの間の休息シーンがまさにそれだが、もう一つある。
それは軍医(藤田進)の存在だ。序盤から彼女たちにお菓子をあげたり、何かと面倒を見てくれる。藤田の柔和で朴訥とした笑顔が、誰一人として頼りにならない大人たちの中にあって「心のよすが」のように映っていた。
だがそれは、彼女たちをさらなる絶望の淵へと追いつめる伏線でしかなかった。
洞窟に追いつめられた看護班。米軍の投降の呼びかけに走り出す女学生。洞窟内に響く銃声。倒れる女学生。彼女を撃ったのは、軍医だった。