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「カフエー」には女給に関するさまざまなデータが載っている。

 まず年齢。1925年7月に中央職業紹介事務局が東京、大阪の女給3000人を調査した結果では、最年少が東京の13歳2人。「19歳、20歳を中心とする前後4年が最も多く、この18~21歳のいわゆる花の盛りの年齢にある者が全員の5割3分(53%)を占めている」。女給に就いた理由は東京の約44%、大阪の約42%が「『収入の多い』ことを目当てとして就職したものとみることができよう」。

 では、実際の収入はどうか。「カフエー」が引用しているデータによれば、東京、大阪を合わせた女給の約84%までが月収60円(2017年換算約9万4000円)以下。しかし実際はもっと多いと同書は書いている。東京・銀座や大阪・道頓堀などでは月収200円(同約31万円)以上も。それはほとんど客からのチップだった。

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 女給の収入は固定給と客からのチップがあったが、昭和に入ってしばらくたつと、収入が完全にチップだけという店が増えたという。そうなれば、客にひいきしてもらうしかない。「もしチップ制でなかったら、何も女給は媚態まで示す必要はない。客がたばこをすいそうだからといって、急いで近寄ってマッチをすってやる必要もない。いわんや手を握らせる必要もない。それもこれも、みなチップ欲しさのゆえである」(「カフエー」)。身持ちの堅い女給もいれば、女の色気を客に売るような女給もいたはずだ。同書に掲載された調査結果には、彼女たちの感想、希望も含まれている。「彼女たちが現に従事しているその職業を良いと思っているのか悪いと思っているのか」。実際に調査されたデータが残っていた。

▽現職に対して悪いというもの(全回答数305)

 (1)    良いと思うことなし 96
 (2)    良いと思わない、早くやめたい 84
 (3)    他に仕事がないので仕方なしに 54
 (4)    女給を世間の人は理解しない 40
 (5)    一部女給のため、世間の人から卑しく見られるのが残念だ 23
  その他

▽現職に対して良いというもの(全回答数332)

 (1) 良いと思う 138
 (2) 社会の状況及び男の心理が分かるから良い 58
 (3) 心がけ一つで良いと思う 43
 (4) 将来独立するには良い 27
 (5) 多くの人と交際するから良い 21
  その他

(「カフエー」より)

「カフエー」は「現職に対して悪いというものと良いというものとが相伯仲しているのも面白い。しかし、良いというものも必ずしも心から『良い商売』と思っているのではなく、『あまり良い商売ではないが、他にこれ以上の商売もないから』という程度である」と分析している。「女給という職業の弊害は?」の質問には、東京は「誘惑が多い、また誘惑されやすい」(83)が、「夜遅くなるのが困る」(32)「心がすれて漸次不良性となる」(20)を圧倒的に引き離して最多。当時の女給の叫びが聞こえるようだ。小説「女給」に登場する小夜子もその1人だったのだろう。 

「先生は天下の文士菊池先生であり、私は一個の見るかげもない女給なのです」

 雑誌「犯罪科学」1930年10月号に「『小夜子』の見た菊池寛―所謂(いわゆる)『女給』事件の真相」という記事が載っている。筆者の名前は「山口須磨子」。これが「小夜子」本人のようだ。

 広津に自分の話をした動機を「あのまばゆい電光の下に孔雀のように振りまくウエイトレスの心の中にも、どんな重い悲しい現実の半面を持っていることがあるものかをお話ししようと思った」と書いている。そのうえで「大変感謝すべき紳士の菊池先生としてお話ししてあるつもりでございます」として、菊池が「僕の見た彼女」に書いたことの多くに反論している。「一女給の私の本名まで出して、先生の自己弁護の犠牲になされたやり方には、いまさらながら、先生もおとなげない仕業をするものと思わないわけにはいきません。先生は天下の文士菊池先生であり、私は一個の見るかげもない女給なのです」「先生はその時こうおっしゃったではありませんか。『僕の言うことを聞けば君の身の周り全部、女として恥ずかしくない程度に、それから2年間、どんなことがあっても見てやる。後で店も出してやろう。それから、たびたび会うのに外に行くのはみっともないから、いい所に家を借りたらどうだ』などと言われたことを忘れていらっしゃるようです」「何の野心もなく女に金をやったんだと申しますが、おそらく男の人で、私たちの目から見れば、ことにカフエーなどに働いている女に何の野心もなしに相当の金やその他のものをくださることなんかあるものですか」……。

1966年ごろの「小夜子」さん。「杉田喜久枝」が本名という(「生きている名作のひとびと」より)

 どうみても男の側の分が悪いのは明らかだ。この女性はその後、詩人で作家の長田幹彦が主宰し、落語家の柳家金語楼らが出演した「女給芝居」に一座のスター格で登場した。その後のことは、1966年に出版された読売新聞社編「生きている名作のひとびと」中の「私は菊池寛の“ご指名”だった」に59歳当時のインタビューとして載っている。読むと、実人生もほぼ小説通りだったことが分かる。勤めたカフエーは「タイガー」から「クロネコ」へ。「(『女給』の)モデルだというので、いろいろと騒がれるようになりました。しかし、人のうわさも七十五日とはよくいったもので、クロネコをやめ、『パレス』という店に移ったころは『あれが女給の“小夜子”だよ』と目引き袖引きされることもずっと少なくなりました」。1936年に独立して「コテイ」というバーを始め、戦後も続けていたという。永井康雄「銀座すずめ」によれば、彼女の子どもは結婚して母親になっていた。