なぜ日本では感染者が「断罪」されてしまうのか? なぜ日本のコロナ対策は「要請」と「自粛」なのか? コロナ対策成功のカギが「女性」という報道は本当なのか? 語り尽くした120分超!
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中野 本日は自宅からのリモート座談会ということで、よろしくお願いします。磯田さん、後ろは掛け軸ですか?
磯田 僕は京都に住んでいるので、本来、鴨川の納涼床の季節なんですけれど、今年はコロナの影響でお客も少ない。せめて川床の絵の掛け軸から涼を取れればと思い、その前に座ってみました(笑)。
スー 磯田さん、はじめまして。今回、この座談会は、私と中野さんの持ち込み企画なんです。コロナの感染拡大によって、日本でも海外でも、「これまで社会の中で見えにくかったこと、気づきにくかったことが表に出てきた」という感触を二人とも持っていて、LINEで意見交換しているうちに、週刊文春WOMANに企画として提案しようと! 編集長に電話をして「どなたか我々とは違う視点を持つ方をご紹介いただきたい」と相談し、磯田さんに白羽の矢を立ててしまいました。
中野 とくに私が推しました(笑)。というのも今回、世界各国が取り組んだコロナ対策は、ある種の社会実験だったと思うんです。結果的にどの国が成功し、失敗したかはまだ分かっていないところもありますが、磯田さんがご専門とされる歴史学は、過去の社会実験のデータの宝庫ですよね。感染症によって社会が歴史的にどう変わってきたのか、ぜひお伺いしたかったんです。
磯田 光栄です。僕は「災害と病気はすべてをあらわにする」が持論なんですが、『後漢書』王覇伝に「疾風に勁草を知る」ということわざがあります。激しい風が吹いてきた時に強い草だけはそのまま立っている。つまり長所も弱点もあからさまになる。たとえば日本人は追いつめられると、型に走るんです。「みんなこうしますから」というところに安心感を求める。アメリカ人は訴訟を起こす。やはり、今回、中国を訴える動きが出ました。
スー 先日、友人から回ってきたアメリカ人のフェイスブック投稿画像には、「マスクをすることは政府にコントロールされていることの証ではない。マスクは弱虫の証ではない」などと書かれていました。自由に対する信奉や、コントロールされることへの拒絶反応、強くあるべきという観念が、日本人の比ではない。アメリカで暮らすのも大変だなと思って。