※こちらは公募企画「第2期“書く将棋”新人王戦」に届いた36本の原稿のなかから「文春オンライン賞」を受賞して入選したコラムです。おもしろいと思ったら文末の「と金ボタン」を押して投票してください!

編集部の推薦コメント:

「推し」を描くために必要なものは、特別な体験ではありません。ただし、読者の共感を得るためには、その「推し」の魅力を伝える具体的なエピソードが不可欠です(それは、ツイートでも、ネット解説でも、イベント出演時の発言でもかまいません)。

将棋会館での飯島少年との思い出は、筆者だけが知っている宝物のような逸話です。しかし、そこに甘んじることなくディテールを掘り下げ、さらには「いま」の対局に投影したところに書く力を感じました。

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いわば谷間の世代である

 103手目、羽生九段の玉はするりと攻めをかわし、遮るもののない大海へ逃げ込みを決めた。「将棋とは、最後に羽生が勝つゲーム」。飯島君は健闘したが、最後の競り合いで突き放された。無念だろうな――。

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 モバイル中継はそこから2分間、着手を伝えなかった。飯島君が指さない。終局に向け気持ちを整理する時間なのだと思った。私はプロの将棋を、飯島栄治を、われらが世代を代表する棋士を、軽く見てしまっていた。

 飯島栄治七段。1979年生まれ、40歳。

 現役棋士を生年月日順に並べると、1975年12月から1982年1月の約6年間に生まれた棋士が24人いる。この24人の中には、順位戦A級に昇った者も、タイトルを獲得した者もいない。いわば谷間の世代である。しかしB級1組まで昇った者なら4人いる。その1人が飯島七段である。

飯島栄治七段 ©相崎修司

 飯島君と出会ったのは今からちょうど30年前の1990年、私が小学6年生、彼が5年生のときである。当時の小学生はファミコンに熱中しており、将棋に興じる者は少なかった。学校や児童館で相手を探しても、山崩し、まわり将棋、はさみ将棋が関の山で、本将棋の相手はいなかった。

 将棋少年たちはやがて一つの場所に行き着く。「総本山」すなわち東京・千駄ヶ谷の将棋会館道場である。対戦相手を得た少年たちはぐんぐん力をつけていく。6年生の私はアマチュア二段になっていた。自分はどこまで強くなれるのだろうか。奨励会を目指すべきなのだろうか。

「じゃあ飯島君とやってみるか」と手合カードを渡された。「四香」と書いてある。相手が四段、香落ちのハンデをもらうという意味である。私より一回り小さく、丸っこい顔をした少年が、少し遠慮がちに笑みを浮かべてついてきた。

深く静かに潜航し、いつの間にか三段リーグに

 完敗だった。私がいかに暴れようとも、すべて彼の掌の上であった。彼は年下とは思えないほど落ち着いており、感想戦では、やはり遠慮がちに笑みを浮かべつつ、私のどこが悪かったのかを丁寧に教えてくれた。

 やがて、この道場には、私よりも段位が高く、しかも年下の少年が何人かいることに気付いた。一度彼らと家に集まって将棋を指したことがある。少年たちはまさに才気煥発で、指し手も言葉も早く鋭かった。私はただただ負け続けた。

 飯島君もその場に来ていた。彼は「飯(いい)ちゃん」や「栄(えい)ちゃん」と呼ばれていた。性格は温和、地味で堅実な将棋を指し、ボヤきながらも最後には勝っているという少年棋士としては珍しいタイプだった。仲間内では一目置かれていた彼であったが、それでも小学生名人戦では北海道の少年に完敗を喫してしまう。上には上がいることを目の当たりにし、私は奨励会を目指すことを諦めた。

 道場通いをやめた後も、奨励会に進んだ少年たちの動向は雑誌でチェックしていた。もはや会うことも話すこともなく、一方的に星取表を眺めるだけの関係である。才気煥発だった彼らも、奨励会ではもがき苦しんでいるようだった。しかし飯島君だけは順調に昇級を重ねている。地味な将棋だったのに、才能あふれるようには見えなかったのに、止まりそうで止まらない。深く静かに潜航し、いつの間にか三段リーグに名を連ねている。

 2000年4月、あの渡辺明と同時に四段昇段、プロ入り。時に20歳。十分に若い。三段リーグを4期、C2を5期、C1を5期、B2を6期としっかり力をためて上がっていく。2016年4月、36歳にしてついにB級1組までたどり着いた。何という堅実さ。棋風と同じではないか!