冒頭から私事になって恐縮であるが(尤もこのコラムでは私事以外を書いたことはない気もしないではない)、最近、新しい本を出した。しかも続けて2冊である。1冊は田中悟・金容民両先生との共編著の『平成時代の日韓関係』、出版社は2000年の最初の単著出版以来、幾度もお世話になって来た、筆者と共に三つも学術賞を取った京都のミネルヴァ書房である。どうでもいい事だが、何を間違ったかこの書籍で筆者は「共著」なのに、3章も自分で書いているから気合いの入った作品である事は間違いがない。もう1冊は単著で『歴史認識はどう語られてきたか』で、こちらの出版社は東京の千倉書房。歴史教科書問題や慰安婦問題、更には旭日旗問題を題材に、日韓両国や国際社会で歴史認識問題の様々なイシューがどの様に議論されて来たかを詳細に議論している。自分で書くとかなり間抜けであるが、どちらも300ページを優に超える大作である。
因みに筆者が日本語で単著を出すのは、2014年の『日韓歴史認識問題とは何か』(ミネルヴァ書房)以来。つまり、あの森脇監督3年目、ソフトバンクとの激しい競り合いで、後1勝でリーグ優勝を逃した年からはじめてということになる。筆者の研究者としての業績がオリックスのそれと連動しているかのように見える原因は読者諸氏に任せるとして、その間、日本語での共著や英語や韓国語での単著は出したとはいえ、「日本語での研究」については、忙しさにかまけた筆者は、随分長く「Bクラス」に低迷していた事になる。
我々はやっぱり自分が成し遂げた事は誰かに見て欲しい
さて、なんだかんだで著者や編者として、日本語や英語、更には韓国語の書籍の表紙に名前を連ねてこれで20冊目になる筆者であるが、自分が書いた本が出版されるのはいつも嬉しいものである。万の単位で売れる新書とは異なり、専門書は数千冊も売れれば御の字なので、あちこちの知り合いや研究でお世話になった人に、自ら買い上げてお送りすれば、赤字になる事だって多い。にも拘わらず、書籍を出すのが楽しいのは、多くて数百名、酷い時には数十名の読者がいれば上出来な学術論文と比べれば、遥かに沢山の人に読んで貰えるからである。
だからこそ、新しい書籍が出る度に、筆者は近所の大型書店に足を運び、自著が並ぶ本棚を自己満足感一杯で眺める事になる。そして、時には自著を手に取り、うっとりと触感を楽しみ、共に記念撮影をし、ほんの少しだけ見えやすい位置に並べ直す(やりすぎると店員さんに迷惑になるので、良い子は真似をしないでください)。
そして、素知らぬふりをして、書棚の陰から、誰か買わないかと思いながら、暫くの間見守る事になる。そうだ、いやそこじゃない、もう少し右、内角高め一杯のところにある奴だ。そうそれを掴んで、そのままレジに持っていくんだ。大事な本だから落とすんじゃないぞ。重いんだったら、おじさんが代わって運んであげようか。
勿論近所の書店で自著がどれくらい売れようが、それにより研究者としての評価が上がる訳じゃないし、大学から貰う給料は一円だって変わらない。それでも、自分の知らない誰かが苦労して書いた本を開き、そこから何かを学んで、楽しんでくれるならそれに越したことはない。そう我々はやっぱり――仮にそれが客観的にはどんなにひどいものであっても――自分が成し遂げた仕事の成果は誰かに見て欲しい。だって、その結果を出すまでにあんなに苦労して来たんだから。
そしてそれは「観られることが仕事」のプロ野球選手なら猶更そうだろう。プロとは誰が見ていない所でもきちんと仕事をするものだ、というのは正論かもしれないけど、無理筋の議論である。観客を入れる前と後とで、全く別人になってしまったソフトバンクの松田宣浩を見ればわかるように、どんなに実績のあるベテラン選手だって、自分の活躍を見てくれるお客さんがいる方が張り合いがあるに決まっている。
しかし、その意味で今年のプロ野球を巡る状況は、選手たちにとって残酷だ。新型コロナウイルスの蔓延が続き、第二派の到来さえ指摘される中、既に8月末まで観客を5000人以下に制限する事が決まっている。継続する規制の中で、応援する観客は大声を上げる事を禁止され、選手との間の交流も大きく限定されている。
それでもスター選手なら、彼らの活躍は日々メディアに取り上げられ、彼らはそこから自らの評価を知る事ができるだろう。自ら発信する機会も数多くあり、そこから様々なファンからのリアクションも期待する事ができる。しかし、それは例えばベンチスタートの若手や中堅選手には難しい。自らの活躍をファンに届ける機会に恵まれない選手たちに、どうやって我々の声援を届け、彼らのモチベーションを高めるように助けていくか。今の様な状況だからこそ、ファンもまた、一部のスター選手だけに目を奪われない「目の肥えた」応援をする事が重要になっている。